皆さんは「親に似ている」と言われたら、どう反応するであろうか。子どもは、ある時期(多くは多感な時期であろう)に、他人からそう言われると、嫌悪の情を抱くようだ。どうも親の悪い所ばかりが目に付いて、しかも自分自身それをそのまま受け継いでいるようで、赦せないと思うのである。「あんな風になりたくない」。近い距離で生きるなら、血のつながりは素より、有形無形に子どもは親の影響を受けるだろう。
ある識者が語っていた「ある時期から『親に似ている』と言われても気にならなくなった」。どうしてかと言えば「それは、親と異なるものが自分の内に生まれてきた、ということなのだろう」。たとえ親子と言えども、はっきりと別々の人格である。聖書はそのようなひとり一人の人間を見ていると言えるだろう。
今日の個所は「ダビデ王位継承史」のクライマックス直前部分である。次章でダビデの息子アブサロムの死が語られる。しかもその終わりは、不可抗力による不幸な「事故死」である。親しい者たちの嘆き、とりわけ親の悲嘆は、いかばかりであったろうか。実の親に反目と反抗を繰り返し、一旦は和解し涙ながらの和解をおこなうも、再び決裂しついにはその生命をも狙って、執拗に追求を続ける若い王子、順当にいけば、父王の後を継ぐのはこの息子であると、誰をも信じて疑わなかった人物である。
サムエル記下は、ダビデからソロモンへと王位が継承される経緯が記された「王位継承史」がその主要部分を占めているが、そもそもなぜそれが歴史(正史)として記されたのか、それはソロモンの即位が、「正統」の王位継承であったと示すためである。ソロモンが王位に就いたのは、人格的に優れていたから、王にふさわしいからというのでは、古代では道理にはずれた論理である。なぜなら「王位継承順位」という歴然とした厳格なルールがあるからである。ダビデ家において、ソロモンは第10番目の息子である。普通ならば、王位はまず回って来ない冷飯食いであろう。そんな王位とは無縁のはずの息子が、なぜダビデの後を襲うことになったのか、その次第を書き記したのが、この継承史の目的である。
確かに、聖書によれば、ソロモンの王位継承は、神のみこころとされている。だからと言って、ただ神のご意志によって、そのままソロモンが指名、抜擢されて、という単純な話ではない。神のドラマの中で、イスラエルに生起した諸々の出来事が、人の目に良いことも悪いことも、ひとつ残らず全て結び合わされて、ソロモンの継承と言う事態を生み出した、という神学思考がそこにある。神のみこころは歴史の中でこそ露わにされる。そうした緻密に練られた神の物語こそ「歴史」であり、それを記述することが、歴史家(旧約では「知者」と呼ばれただろう)の務めだったのである。
さて、「継承史」の重要なキーパーソンは、ダビデ王の三番目の息子であるアブサロムという若者である。継承史の真の主人公は、実にこのアブサロム(「平和の父」という意味)であると言っても過言ではないだろう。現代風に言うなら、「悲劇の王子」と呼ぶこともできる。下14章25節以下に、彼のプロフィールが記されている。髪が長く美しい若者だったようだ。しかしその「美しさ」によって彼は「生命」を失うことになる。「良い」とされる事柄によって「破滅」する、という思考も、聖書ならではの論理であろう。彼は、タマル事件を契機にして、異母兄弟であった長兄アムノンを殺害し、これで父ダビデとの確執が始まる。アブサロムはダビデ王の血を最もよく受け継いでいる人物だったのだろう、カリスマがあり、人心掌握術にも長け、容姿も美しく父以上の信奉者を得て、クーデタを画策する。
この王子は、若いが聡明であり自分の力の限界を知っていたから、参謀役に名高い軍師アヒトフェルを招へいする。彼は偉大な戦略家であり、何より現実主義者でもあった。喫緊の課題はダビデ王一人の生命であり、その軍と戦うために特化した、より迅速な行動力を有する追討部隊編成の必要を説く。これはダビデの戦術をよく熟知している人物ならではの戦略であり、なによりイスラエル精神を体現している軍師ならではの方策であった。
しかしアブサロムがいくら有能であるといっても、やはり父の老獪さには及ばない。ダビデは事前に、アブサロムの下に、自分の懐刀フシャイを送り込み、戦略を攪乱させ、用意周到にも、自分の息のかかった祭司ツアドクとアビアタルから情報を引き出していたのである。アヒトフェルの戦略は、経験に裏打ちされた実に現実的、実際的な対ゲリラ戦法である。ダビデの戦法は、起伏の激しいパレスチナの地の利を生かした、少数精鋭部隊による素早さと神出鬼没さにあった。ダビデは若い頃、先王サウルの凶刃を避けての逃亡生活によって、自国の地形に熟知しているのである。土地勘を味方につけて、迅速に攻撃と退却を繰返す戦法を操る相手は、今でも対処が厄介な敵であろう。長い経験から、アヒトフェルは、そうしたダビデの優位さも、加齢による衰えと、さらに骨肉相見える戦闘という精神的葛藤に付け込めば、十分勝機があると踏んだのである。ところが、アヒトフェルの方法は、実際的現実的であるがゆえに、堅実な戦法であり、派手好きの若者たちの心を掴むには、地味すぎたのである。
逆にフシャイの案は、全イスラエルの軍勢を一堂に会して、少数の敵に総攻撃をかけるという、一般大衆受けのする華々しい作戦であった。「多勢に無勢、敵はひとたまりもあるまい」、経験が浅く、まだ若いアブサロム一派は、まんまと裏切り者の唱える「真っ向勝負大作戦」に与してしまい、ついに自滅して行くことになる。18章6節以下にこのように記される「兵士たちはイスラエル軍と戦うために野に出て行った。戦いはエフライムの森で起こり、イスラエル軍はそこでダビデの家臣に敗れた。大敗北で、その日、二万人を失った。戦いはその地の全面に広がり、その日密林の餌食になった者は剣が餌食にした者よりも多かった」。その有様は、ただ一語「森の餌食」と語られる。ダビデ軍のゲリラ戦法にものの見事にやられたのである。
生涯、実戦に明け暮れし、そこでの経験に培われた戦略を退けられたアヒトフェルのその後については、23節以下に記される「アヒトフェルは自分の提案が実行されなかったことを知ると、ろばに鞍を置き、立って家に帰ろうと自分の町に向かった。彼は家の中を整え、首をつって死に、祖先の墓に葬られた」。この彼の振る舞いを人はどう評するだろうか。ここにはひとりの老兵の「武士道」とも呼べるものが、あらわされていると言えるだろう。決して美化してはならないが、一軍人としてのひとつのけじめのつけ方、というものなのであろう。「先祖の墓に葬られた」という文言は、イスラエルの追悼の辞であって、責められるべき人生の終わりではないことが告げられている。彼の最期に対するイスラエルの人々の思いは、この一語に込められているであろう。権力をめぐる相克と、その発露である戦争が、何をもたらすものか、古代イスラエルの歴史家は、実に冷徹な目を持って、抑えた調子でその歴史を記すが、根本において、戦争が招来するものが、結局何であるのかを、語ろうとしているのであろう。そしてそれは同時に、神の目から見た人間の世界なのである。