「捨てた石、これが」ルカによる福音書20章9~19節

「さるもやってきました。『ぼくもいくよ。』『本当かい?じゃあ、力がつくきびだんごをあげるよ。なかまがふえてうれしいなあ。』いぬとさると ももたろうが こうたいで こいだので、小ぶねは ぐんぐん すすみます。ももたろうたちは たからを もちかえると、一つずつ もちぬしの ところへ かえしました」。現代版の昔話『ももたろう』の一節である。一団に「主従関係」はないので、皆が自発的な「仲間」であり、「同一労働・同一賃金」を担い合う関係として語られる。さらに最後に得られた利益も、自己所有とせずに、「還元」すべきものとして結末づけられるのである。「昔話」もまた、時代と共に様々な価値観の解釈の波にさらされる、ということだろうか。

今から10年程前、日本新聞協会広告委員会が「しあわせ」をテーマに実施した「新聞広告クリエーティブコンテスト」。1091作品の応募があり、その中で最優秀賞に輝いたのは、泣きそうな顔の鬼の子どもが語る様子を描いた作品。鬼の子はこんな言葉を発している「ボクのお父さんは、桃太郎というやつに殺されました」。この作品の題名は「めでたし、めでたし?」。作者はこの作品に寄せてこうコメントしている「ある人にとってしあわせと感じることでも、別の人からみればそう思えないことがある。違う視点でその対象を捉えるかによって、しあわせは変わるものだと考えました」。

昔ながらの伝統的な物語を、勝手に解釈して再話すること、いわんや恣意的に改変することは、道義上いかがなものか、という批判もあるだろう。但しこんな状況を想像してほしい。丁度、大勢のデモ隊と警備隊が路上でにらみ合っている。それをマスコミのカメラがその映像を配信している様子を思い浮かべて欲しい。そのカメラがどちら側に向けられているかで、それを視聴する人の心象は、随分違ったものとなるだろう。カメラ・レンズの砲塔が、デモ隊の方を向けられるのか、警備隊の方に向けられるのか、で「見た目」が違って見えて来るところで、「真実」とは何なのかを、問うてくるようだ。「極端なことは言うな」と言われるかもしれないが、今、この礼拝の様子は、ライブ配信されている。カメラは正面を向いて、私の顔が映っている訳だが、会衆の方を向いて、皆さん方の目顔が写されていたら、「表情」は、同じだろうか。

今日の聖書個所に、主イエスの話を聞いていた人々の、生の反応が記されている。これもこの福音書の著者だけが記している言葉であり、ルカの読者に対する強い問いかけでもあると言えるだろう。16節「彼らはこれを聞いて、『そんなことがあってはなりません』と言った」。「あってはならない」という用語は、「収穫物」「果実」という意味の単語に、否定詞が付されている。この譬話は、「ぶどう園」が舞台となっているが、そこでの出来事について「収穫がない、実りがない」という表現を用いたところに、ギリシャ語が巧みな著者の文章力を垣間見ることができるだろう。「なんてこった」「何の実りもない」「不毛だ」という人々の心情を見事に掬い取っているようだ。確かにどんなに広大で、豊穣で美しいぶどう園であっても、このような殺戮と血なまぐさい惨劇が展開されているとしたら、そのぶどう園は、「不毛」「実りがない」と評されるであろう。そんな血が染み込んだ土から取れたぶどうを、誰が口にしたいと思うだろうか。しかし世界の有様は、この譬の中に凝縮されていると言ったら言い過ぎか。実際、国際上で取引される作物や生産品の多くのものが、その背景に、この様な綱引き、資本家と労働者、生産国と消費国、政治と経済の綱引きの上に、争いながらの取引がなされ、私たちの食卓に並べられている現実がある。

農園の主人が農夫たちにぶどう園を貸し、旅に出る。実りの季節が巡って来て、主人は収穫を受け取るために、僕を送る。しかし農夫たちは袋叩きにして空手で追い返す。それが何度か続き、跡取り息子ならばどうにかなるかと、主人の名代として送ったところ、農夫は息子を殺し、農園をわが物にしようとする。ところがそうは問屋が卸さない、主人は(手勢を連れて)戻って来て、(不法な)農夫たちを殺し、また新たに小作人を雇い直すだろう。

「そんなことがあってはならない」と話を聞いた人々は叫んだというが、それらの人々は、話の何に、どこに、刺激されたのだろうか。そしてここにいる皆さんは「そんなこと」が一体、何を指していると理解するだろうか。譬話の全体を指すと考える人は、非常に「優等生的」な読み方をしている人である。どの立場にも与さない、生命を支える食料を巡って、実に激しい闘争があること、そのような現実があること、それ自体を憂うる、悲しむというのである。

少しカメラの位置をずらして見ようか、「ある人」としか記されていないが、おそらくこの譬を聞いた人は、これが実際、誰を指すのか、直ぐにピンときただろう。豊かなぶどう園を手広く経営する人物である。「農夫に貸して旅に出た」という。大土地を所有し、他所に住んでいて農業経営する「不在地主」のことで、自分自身はエルサレムやローマに住む貴族や資産家である。自分では汗水をたらさず、小作人を雀の涙程の金で雇い、手のかかる作物を育成させ、収穫の上りだけを引きはがして持って行く。雇われの小作農民の心情はいかばかりであろうか。

確かに、ぶどう園で働く労働者たちに、反感を持つ人は多いだろう。何せ、ぶどう園で働かせてもらって給料を得ているのに、収穫が求められると反抗的、暴力的に振舞い、ひいては主人(経営者)の跡取り息子を、情け容赦なく殺害する。それで「ぶどう園は自分たちのものになる(取り戻せる)」と嘯くのは、短絡的だし、何より人の道に反している。

またカメラの方向を変えると何が見えるか、美しいぶどう園は、もともと農夫たちの先祖代々が、額に汗して丹精し、長年にわたって築き上げた宝石のような嗣業であった。「畑に宝物が隠してある」と主イエスは教えたが、宝は埋められているのではなく、畑そのものなのである。ところが運悪く数年の干ばつで不作に見舞われ、わずかな借金のために大切なぶどう園を手放さざるを得なかった。するとエルサレムで暮らす資本家(大祭司)がこの美しいぶどう園を安い金で買い叩き、元の持ち主の農民を小作として雇い、手間のかかるぶどうを育てさせ、そこで得られる豊かな収穫によって、有り余る富をさらに肥えさせている。一体、収穫は、生命は誰のものか。

もっとも気の毒なのは、跡取り息子である。取り立てのために、親の名代として嬉々としてぶどう園に行ったとは思えない。僕たちがあれほどひどい目にあわされた場所である。跡取りだからと言って、平こら敬ってくれるとは思えない。さりながら、父親の厳命には逆らえない。どんな気持ちだったろうか、ついに彼は殺されてしまうのである。こうした子どもが世にどれ程の数、いることだろうか。皆さんは、この譬の中で「そんなことがあってはならない」と思う部分はどこであろうか、そこにあなたのカメラの向けられた方向がある。

最初の教会は、この譬を「キリスト論」として、主イエスの受難と結びつけて理解したのは確かである、ぶどう園の主人は、「神」、農夫たちは「ユダヤ人」、跡取り息子はもちろん「神の独り子イエス」である。「ぶどう園を他のものに与える」、とは「異邦人宣教」だというのである。しかし、この理解の仕方は、このパラグラフの流れからすると、的を得ていないと言えるかもしれない。主イエスは「そんなことがあってはなりません」と言う人々を見つめながらこう言われたという。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』」。詩118編22節の言葉の引用である。「捨てられた石材」しかも「家を建てる専門家」が捨てた石、が隅の親石、建物の基礎を支え、建物をしっかりと立たせる礎石となった、という。つまり、人間の見立て違い。見損ない、見当違いな事柄が生起する、それが神のみわざであるというのである。譬話の中での、ぶどう園の主人も、農夫たちも、いや、あのかわいそうな跡取り息子もまた、見込み違いなのだ。神のなさるみわざに対して、人間は実に、見込み違い、見当違いな理解しかできない、「彼らは自分たちが何をしているのか、分かっていないのです」。ルカの描く十字架の場面で、釘付けられた主イエスにそのように語らせている。

「湖に浮かべたボートをこぐように人は後ろ向きに未来へ入る。フランスの詩人バレリーの言葉という。ボートをこぐ人が見るのは通り過ぎた風景ばかりで、ボートが向かう先、未来の景色は見えていない。詩人の言葉ほど格調高くはないが、先は読めないものだとつくづく思う。マスク着用は人それぞれの判断で――という時が来たが、その頃はマスク不足で、店先で見つけては手に入れていた。『不足』のはずが、3年後には『余剰』の物と化す。背中の未来はまるで見えていなかった。はやる気持ち、勇み足は時に『余剰』を生む。3年前、手作りマスクを地域のお年寄りに配る動きが盛んだった。不足は『余剰』だけでなく『心遣い』も呼び寄せた。小舟から見た美しい景色をいま一度、思い起こす(3月16日付「水や空」『背中の風景』)」。

主イエスの担った十字架、その姿を、誰もしかとは理解できなかった。今の私たちも、「わがためなり」と言いつつ、日々、自らの十字架を取って従うことに、躊躇やいい訳をしながらも、ずっと後の方に離れて、何とかついてゆくのがせいぜいであろう。それでも、その十字架の姿、背中の風景をひたすら見ようとするならば、そこに神の風景も現れて来るだろう。余計な事しかしない、私たちだが、そこに「心遣い、愛」も現れて来るのではないか。何より神は、私たちの見立て違いによって、頭石を立てられる方であるのだから。