「最期について」ルカによる福音書9章28~36節

3月は季節の変わり目、この国では「卒業」のシーズン、節目である。1年という時は、巡り巡って果てしなく続いているように感じられるが、やはりどこかに始まりと終わりを設けないと、堂々巡りで何ともやりきれないから、「節目」を作る、というのも人間の知恵の発露、これも発明と呼べるものだろう。「これからは 何が俺を縛りつけるだろう/あと何度自分自身 卒業すれば/本当の自分に たどりつけるだろう/仕組まれた自由に 誰も気づかずに/あがいた日々も 終る/この支配からの 卒業」(尾崎豊)

季節柄か、こんな文章に巡り合った。「例えば最近よく考えるのは、私は常に『終わり』に生かされているなということ。今日という日に終わりが無いとしたら…とすると、きっと『一日』という単位そのものも無いのだろうけど、今日はこんな日だったなと振り返ることもなく、ただただ終わりなき一日を過ごすのはきっと地獄だろう。うれしいことや楽しいことが終わるのはどこか寂しさや名残惜しさがあるが、それ以上につらいことや悲しいことに直面した時、その事柄やその一日に終わりがあるからこそ乗り越えられる感覚がある」(岩倉千花、empty共同代表「終りとはじまり」)。

かつて、小説家の安部公房が、こう語ったことがある。「この国の若者は、信じるか信じないかはともかく、教会に行くべきだ。人生とか、死とか、この国でおよそ真面目に、臆面もなく議論できるような場所は、教会くらいなものだ」。この言葉が語られてから、既に半世紀以上が経つのだが、今も変わらずその通りだろう。牧師の説教は今も、人生や愛、そして死、が語られ続けられているし、修養会、懇談会をすれば、そういう事柄が、真面目に、真剣に語り合われるのである。それが今の時代の人々に、受けるかどうかはさておき、この国のどこで、そういう話をまともにすることができるか、そういう見地から教会を考えることもできるだろう。

先述した文章、「終り」に生かされる、というのは、結局のところ「死」を見つめてということに尽きるだろう。仕事や学業には「納期」や「期限」があり、必ず「終り」が定められている。「少し待ってください」と、幾分かは先延ばしも可能であろうが、いつまでもずるずるとはできない。皆さんはどうか、できれば「ずるずると先延ばししたい」と思う方か。それでも越えられない一線が人間にはある。ごまかしてもいい訳しても、お愛想いっても、猶予を認めてもらえない「終り」が、人間の最期、「死」というものであろう。

高度医療によって、随分の先延ばしも可能になったが、それでも限界はある、しかもそれは時間の問題ではだけではなく、質に深く関わるのが、「生命」というものである。普通、「死んだらしまい」と考え、そこから己の目を離して見ないように、知らないふりをしながら、生きているのが人間である。すべてを吹っ切るように「死んだらしまい」と割り切って生きるのも、相応の潔さを覚えるのであるが、それでもなお「つらいことや悲しいことに直面した時、その事柄やその一日に終わりがあるからこそ乗り越えられる」「『終わり』に生かされている」という言葉を、私たちはどう聞いて、どう受け止めようとするだろうか。特に人生の不条理、運命、試練というような事柄を身に負う時に。

今日の聖書個所は、先週の続きである。この章の一連のパラグラフは「信仰告白」が中心となって、記述が展開されて行く。但し、ルカ福音書では、その「信仰告白」自体が、非常に「そっけない」という雰囲気を持っている、と前回申し上げた。ルカの主張は、主イエスを信じて生きるということは、何ら特別の英雄的、超人的行いをすることでなく、「日々」、つまりあたりまえの毎日の生活を営むにあたり、「信仰告白」つまり主イエスの名を呼び、口にしながら(祈りながら)、与えられた一日、一日歩んで行くことなのである。そうしたら平穏無事かと言えば、それでもそこに迫害や試練や、困難は生じて来るであろう。しかし主イエスはそれらの時も、共に歩んでくださる、というのである。

ところが、そうした私たちの「日々」は、永遠にいつまでも続くものではなくて、いつか終わりを迎えるのである。それでは、「終わり」の先にある事柄とは何か。「主イエスはキリスト」という信仰の言葉は、私たちの生命の終わりと共に、空しく消えてしまうものなのか。ルカは、私たちの信仰の言葉を、たとえ拙い信仰の証であっても、神の子の光の中で、捕らえられるべきものであることを主張するのである。それが今日のテキスト個所。高い山の上で、主イエスの姿が変わったという、いわゆる「主イエスの変貌」の出来事である。

「高い山の上で」、どこの山なのかは分からないが、高い山というものは、今なお、神秘的で不思議な場所である。「祈るために山に登られた」とわざわざ付記されるように、聖書では山は、荒れ野と同様に「神との出会いの場所」なのである。だから人里離れて山中で修業をする「修道」「修験道」というあり方も目されて来た。29節「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである」。旧約の一番の著名人2人が現われ、主イエスは彼らと肩を並べて会談をしたというのである。一体、何を話していたのか。よく外交の場で、世界の政治家トップ同士が、にこやかに語り合っている場面が映し出される。本当のところ、彼らは何を話しているのか。もちろん儀礼的なあいさつは、交わすだろう。肝心の話題、一体何を話しているのか、生で聞きたくはないか。

主イエスが旧約の代表的著名人二人と会談した時、何を語り合っていたのか、福音書はちゃんと伝えてくれている。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」。主イエスの「最期について」語り合っていたというのである。おそらく政治や外交の世界で、その場に顔を出している主役(ホスト)の、よりにもよって「最期について」話題にするということは、通常、ありえないだろう。確かに年配者同士にとって、病気談義は、話の種ではある。「胸さわぎ、恋ではなくて不整脈」等というあからさまな川柳もある。

彼らの話題は、「エルサレムで遂げようとしている最期」だったという。つまり主がどのようにして亡くなるか、つまり主イエスの十字架の苦しみとその死を指している訳であるが、「最期」と訳されている用語は「エクソドス」という言葉である。これは「外への道、外へ出ること」という意味の言葉である。「出エジプト記」のことを英語で「エクソダス」と言うが、それと同じ言葉で、「脱出」という意味で使われる。つまり主イエスの最期は、エルサレムのゴルゴタの丘で、十字架に釘付けられ、血を流し、皆に嘲られて、見捨てられて亡くなられた。それは何に勝って、痛ましい無残な終わりであった。ところがその最期は、「エクソドス」であった、「脱出」「解放」を成し遂げたのだと、ルカは強調しているのである。

かつて、イスラエルの人々が、エジプトで奴隷として苦しむ日々を送っていた時代に、神は人々の苦しむうめきと嘆きの声を聞いて、手を伸ばされる。主の僕モーセが遣わされて、人々はエジプト王ファラオの軛を解かれて、父と蜜の流れる約束の地に向かって「脱出」した。これが聖書の「エクソドス」という言葉の意味するところである。聖書の民はファラオの重い軛を砕かれて、それで終了、神の救いの出来事はお終いになった、というのではない。「うめきと嘆き」が取り去られたといっても、生きることはなお、そこから始まるのである。聖書の民は、出エジプトの後、40年の間、荒れ野を放浪したと伝えられる。「約束の地」までの道のりは、なお先にあり、そこに至るまでの道のり、さらに約束の地で始まる生活のために、彼らの歩みは続いて行くのである。

キリストの十字架の歩みもまた、この出エジプトの出来事の繰り返し、生き直しなのだと福音書記者は語るのである。世の人々は、主イエスの十字架の痛ましい姿を見て、嘆き、哀しみ、あるいは口汚くののしり、馬鹿にし、あるいはそれまで抱いていた希望を失った。それが主イエスの「最期のこと」であった。ところが、その「最期について」モーセとエリヤとを介して、その時を語り合う主イエスがおられる。ここに私たちの「あなたがキリストです」という信仰の告白は極まるのである。

冒頭に紹介した文章はこう続く、「『終わり』と、その対義語とされる『始まり』は本当は区別できない一つのものだと思う。一秒一秒、いやそれよりもさらに細かい単位で過ぎていく時間も常に始まって終わって、終わって始まってを繰り返している。そう考えると、何かの発生と消滅という事象は、きっと区別する必要も、わざわざそれを言葉で表現する必要も無く、これはただの人間の言葉遊びなのかもしれない。それでも、私は今日も終わりに向かっているという実感があるからこそできていることがたくさんあるのだから」。

「頂上に到達するのは任意だ。下山するのは強制だ」。アメリカの登山家、エド・ベスターズの名言である。山に登ったまま、それですべて終わりになるわけではない。一度、上ったならば、また降りて来て、日常の生活を始めることになろう。よく登山は人生に喩えられるものだから、私たちの日常も同じことだろうか。しかし、その繰り返しの日常も、「神のエクソダス」の計画の中に営まれるのである。主イエスの十字架の苦しみから、復活の出来事は始まるのである。主イエスの「最期のこと」から、新しい生命の始まりが生まれて来る。神はそこに私たちの一人ひとり人生を、導き連れ出そうとされる。実に「神の国」という約束の地に向かって。