今年の1月、新年早々に入院、手術を受けた。文字通り、「寝正月」と相成った次第である。幸いにして、担当医師の適切な治療と医療スタッフの手厚い介助や看護のおかげで、どうにか回復の途をたどることができ、深く感謝をしている。消化器系の手術だったので、術前、術後には、飲食をすべて禁じられ、絶食状態で常時点滴によって一週間の時を過ごした。事前の説明で「飲み食いは一切禁止」と通告されていたので、飲食できないつらさを覚悟して事に臨んだ。どちらかと言えば、自ら食い意地が張った方だと思うので、随分ひもじい思いをすることになるだろうと予想していたが、実際、術後しばらく続く鈍い痛みを堪えることと、終日のぶどう糖輸液により、それほどの飢餓感を感じることがなかったのは、意外であった。
術後は寝台に横になっているしかなく、ほとんど眠った状態から、次第に回復して目覚めている時間が多くなっても、読書する意欲もわかないので、仕方なしにテレビをつけて画面をぼうと観ることに、大半の時間が費やされる。ところが正月番組で、どこの局の番組もみな、性懲りもなく「グルメ」ばかりが放映されるのである。絶食状態にある者にはいささか目の毒と思えるが、やはり食欲というものは、元気であってこそ、ということか、「食べたい」という気持ちがまったく湧いてこないことが不思議であった。おそらく点滴によって絶えず注入される「ぶどう糖」のおかげで、脳みそが十分満足して、空腹を感じない状態にあったのかもしれない、つまり私たちの脳みそは、それほど騙されやすい、ということなのであろう。
つくづく思わされたことは、「飲食」という行為が欠けると、私たちの時間は、極端にいえば生活にメリハリを失い、非常に平板なものになってしまう、という実感であった。だから「食」というものは、生命維持のために栄養を補給するという直接的な意味合い以上に、人生の意味や意義に深くかかわっているのである。大げさに言えば、やはり「食」を粗末にすることは、人生をないがしろにするのではないか。世界の「飢餓」の問題は、単に食料不足という物質的意味を越えて、全人類に関わる「精神的課題」であるともいえるだろう。
今日の聖書個所の直前には「断食」が問題にされている。古今東西、「断食」を信仰生活の重要な要素、「修行」とみなす宗教は少なからずある。その行為を通して、信仰感覚を新鮮に保つための修行といったところだろうか。日中に空腹を我慢して生きることで、生命の底を確認したり、一種の自己犠牲の経験として、飢えた人や平等への共感を育むことで精神を鍛える。さらに、その苦しい体験を共に分かち合い、擦り合わせることで、信仰者同士の連帯感や絆を強める等の意味合いもあるだろう。また、期間中には日中の飲食を断つだけではなく、喧嘩や悪口や闘争などが忌避されることや、さまざまな欲望を制御することにより、自身の尊厳を高める緒にもなると言えるだろう。聖書の民もまた、「断食」を神からの戒めとして、信仰生活の表現として誠実に守ったのであろう。但し、古代では食料の供給は生存にかつかつな状態であったから、ほとんどの人間たちは、満腹することは、まれなことであったろう。
預言者はこう告げる。6節「あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか」。つまり食べるという事柄が、単に腹を満たし栄養を補給するだけの行為で、自らの生存のみに汲々とする姿勢に堕していることを、痛烈に批判するのである。即ち「食」は、生命に直結しており、すべての生命の背後におられ、働かれている方に感謝し、その恵みの重さを味わうことにあるのではないか、というのである。それを単に、「食べる、食べない」という形式的表面的な行為のみを問題にするところに、人間の過誤がある。
今日の聖書個所は、もっと端的に、神のみ言葉が私たちに何を告げているか、人間の根本的な課題とは何かが、はっきりと記されている。そして真正のイスラエルの預言者は、皆、一様にこれを語っているのである。9~10節「万軍の主はこう言われる。正義と真理に基づいて裁き/互いにいたわり合い、憐れみ深くあり/やもめ、みなしご/寄留者、貧しい者らを虐げず/互いに災いを心にたくらんではならない」。人の道というものがあるとしたら、時代を超えて、普遍的に妥当する「価値」があるとしたら、このみ言葉が指し示す事柄を置いて他にないであろう。まったく他に何の説明もいらないし、何ら付け加えることも必要ないだろう。そしてそれが端的にどこに現れるかと言えば、日常生活の中で、もっともあたりまえの卑近な行為とも言える「食事」という行為に収斂するのではないか。
ところが預言者は続けて言う。11~12節「ところが、彼らは耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉を聞こうとしなかった。こうして万軍の主の怒りは激しく燃えた」。人間はこの当たり前の戒め、「戒め」どころか、当たり前の人の「道」に、「背を向ける」というのである。そしてせっせと「断食」には励むというのである。
こういう話を聞いたことがある。インドのコルカタで働くマザー・テレサのもとに、飢餓で瀕死の状態にある人がいることが伝えられた。早速、マザーはありあわせの食物を弁当に詰め、すぐにその人の住まいへと向かった。弁当を届けると、飢餓に苦しむ人が言う、「この隣にも、自分と同じように食べ物がなく、飢えている人がいる。この弁当を半分その人のところにも届けてほしい」と。ひどい飢餓の中にあって、それでも同じ苦しみを味わっている隣人の生命を気遣い、さらに自分の与えられた生命の糧を分かち合おうとする真心こそ、神の命じる「断食」ではないのか。「互いにいたわり合い、憐れみ深くあり/やもめ、みなしご/寄留者、貧しい者らを虐げず」。
9月、この国では夏休みが終わり、学校では二学期の歩みが始められる。夏休み中で休みのために、お昼の給食がないことで、やせてしまう子どもたちがあることが伝えられる。こんなところに、この国の実情が具体的に現れている。「食」は、そこに生きている人間を映し出す鏡である。何を食べているかではなく、どのように食べているのかが、問われるべきであろう。