「十字架のほかに」ガラテヤの信徒への手紙6章14~18節

神学校を卒業する時に、ある恩師がこう助言をしてくれたことがある。「皆さんは、何か自分自身のライフワークというべきものを持った方がいい。これからフィールドに出れば、ひとりで勉強を続けなければならなくなる。ずっと見つめ続ける自分の課題があるなら、それがあなたの世界を広げるだろう」というのである。学者先生だけあって、随分、高尚なことをいうものだ、と感心したが、趣味でも娯楽でも、そういうずっと続けて行けるものを持つのは、人生を豊かにすることに、間違いはないだろう。コロナ禍の生活で、あらためて意識されたことのひとつかもしれない。

また太宰治で恐縮だが、彼の手になる小説のひとつに、『トカトントン』という風変わりな題の短編がある。主人公は一兵卒の兵隊、そして真剣に自らこう思う。「昭和二十年八月十五日正午に、私たちは兵舎の前の広場に整列させられて」敗戦の玉音放送を聞く、「ほとんど雑音に消されて何一つ聞きとれなかったラジオを聞かされ」る。それを聞いて「死のうと思いました。死ぬのが本当だ、と思いました。前方の森がいやにひっそりして、漆黒に見えて、そのてっぺんから一むれの小鳥が一つまみの胡麻粒を空中に投げたように、音もなく飛び立ちました」。ところがその刹那に、彼の心に生じたことは何か、「ああ、その時です。背後の兵舎のほうから、誰やら金槌で釘を打つ音が、幽かに、トカトントンと聞えました。それを聞いたとたんに、眼から鱗が落ちるとはあんな時の感じを言うのでしょうか、悲壮も厳粛も一瞬のうちに消え、私は憑ものから離れたように、きょろりとなり、なんともどうにも白々しい気持で、夏の真昼の砂原を眺め見渡し、私には如何なる感慨も、何も一つも有りませんでした」。つまり「トカトントン」という誰かが叩く金づちの音が、耳に聞こえたとたん、その音か、心に沸き起こった大きな感慨、「死のう」という真剣な決意、熱い激情を、一瞬にして吹き飛ばし、冷ましてしまったというのである。皆さんにはこういう体験はあるか。かつて真剣に、いちずに熱中して、取り組んだことが、いつか突然に熱が冷めて、まったく止めてしまったことが。趣味でも習慣でも、ルーチンワークでも、やめてしまったその切っ掛けになったこととは、一体どのようなものであるのか。

ところがこの主人公は、この時から人生のいろいろな局面で、この「トカトントン」の音を聴くことになる。恋愛をしても、スポーツをしていても、労働運動に参加していても、政治について考えても、火事現場に駆けつけても、お酒を飲んでいても、果てには自殺を考えても、どこからか「トカトントン」のあの音が聞こえて来て、しらじらした気持ちになってしまい、心が冷えて、すべての熱意がしぼんで行ってしまう。そのためにこの音からどうしたら逃れることができるのか、深く思い悩む、というのである。

今日の聖書個所はガラテヤ書の末尾部分である。6章11節からお終いまで「結びの言葉」と題されている。その11節に、興味深い文言が記されている。「自分の手であなたがたに書いています」。学者たちはこう解説する。「ここまでパウロは、当時の慣習にならって、書記に口述筆記させ、手紙を記して来た。しかしここにきて、彼は、自らペンを取って、自筆で手紙を認めたのである。もしかしたら、ここから手紙の末尾まで、彼自身が直接、文章を書き綴った可能性がある」。普通、差出人はサイン代わりに一筆啓上、直筆で短く挨拶するというのが当時の習慣であった。それに倣って自分の筆で一筆を添えようとしたのだが、ただ形式的に書くだけでは、満足できず終わりまでの文言を記したというのである。やはりガラテヤ教会への思い入れの強さ、深さ、そして教会の人々への抑えきれない心情が、最後に噴き出たというところであろう。

最後の締めならば、そこには著者の心情が細大漏らさず吐露されていると見るのが、妥当であろう。それ程長くもない文言の中に、それが明瞭に表されている。何度も何度も繰り返される言葉がある、それが「十字架」である。この単語は聊か乱雑な用語で、元々「棒ぐい」というくらいの意味のがさつな言葉である。「十文字に組み合わされた木材」という丁寧な、あるいは工芸的な用語ではない。しかしこの「棒ぐい」という乱暴な単語から、当時の人々が「十字架」に対して抱いていた感覚を、如実に読み取ることができるだろう。軽蔑、唾棄すべき、目を背ける、呪わしいもの、として見なしていたことが、単語そのものから知れるのである。

そして当時の教会においても、十字架を「棒くい」と受け止める風潮が広がっていたしガラテヤ教会では、とりわけそれが顕著であったのであろう。自分たちの愛すべき救い主が、十字架刑という陰惨でいたましい最期を遂げられたことを意識しながら生きるというのは、信じる者にとってやはりつらい道である。キリストの悲惨が、自分の人生とは無関係だ、などと口を拭って済ますことはできない出来事ゆえに、「十字架という厳粛な事実はひとまず置くとして」、という心情を生んだことは、当然であろう。さらには「棒くい」である「十字架」なんぞにこだわっていたら、このローマ世界で伝道はできない。そもそもそれはローマへの反逆の徴だからだ、という主張もなされたであろう。

「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架(棒くい)のほかに、誇るものが決してあってはなりません」。ここから手紙を記して言った著者が、その終わりにあたっても、しつこく同じ言葉を繰り返すのである。「十字架のほかに誇るべきものなし」、「誇り」とするところを知れば、その人がどんな人で、何を頼りに、何を価値として、何を大事にして生きているかが分かるだろう。ここで「誇る」とは、「信じる」という意味だが、「誠実」「忠実」と訳す方がよりふさわしい。

人間の「誇り」とはつまるところ「自慢」である。大体、人は他の人と比べて自分の優れているところ、大きなところ、美しいところを目立たそうとする。自分としては、それが身の丈精一杯の背延びであるだろう。自分の素晴らしさであるだろう。しかしそれは本当に何ほどのものなのか。「この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです」とパウロは見抜いている。主イエスの十字架への歩みを通して見るなら、人間の考えているこの世の価値、貴さ、真実はいかほどのものか、そしてこのわたしの価値、貴さ、真実はどこにあるのか。皆が称賛し、手を打ってほめたたえ、豪奢な建築物や記念碑を打ち立て、あるいは強力な殺戮兵器を衆目に開陳して、その前に人々をひれ伏させることが、まことの価値や尊さであるのか。赤ん坊の安らかな寝顔、子どもたちの目の輝き、家族、兄弟、友人たちとの食事、楽しいおしゃべり、お年寄りの日向ぼっこ、夜、安心して目を瞑れること、どちらがまことの尊さ、幸いなのか。

主イエスは、人間となり自分を小さくして、十字架で血を流し、まったく無力な姿で、息を引き取られた。神の誇りは、栄光の内に輝くばかりの、麗しい姿で大衆の前に現れることではなく、みじめに打ちひしがれて、絶望の中に自分のありのままを示すことであった。それによって、私たちは知らされたのである。神はひとり一人の人間の人生の、とことんまで、極みまで、共に生きてくださるということを。そこまで私たち人間のところに手を伸ばし、歩み寄ってくださった、ここに主イエスの十字架の誇りがある。

この十字架によって、私たちの人生は、世界のすべては、計られ裁かれるのである。大きさや、うるわしさ、強さ、権力等、金銭等、人間の力を誇るなら、神と何の関係もなくなる。人が自分の努力のみによって生きようとするなら、神の愛を拒絶することになる。「十字架から目を背けない」、この使徒の言葉を、ガラテヤ教会の人々はどう聞いたであろうか。そして今の私たちは、どう聞くのであろうか。

最初に話題にした『トカトントン』、ネタバレになるので恐縮だが、物語の終わりに、何をしても「トカトントン」の音に悩まされ、白けてしまい、生きる張り合いを持てない主人公は、ある作家に手紙を書き、自分の悩みを打ち明け、助言を乞う。するとこういう返事が来たという。「気取った苦悩ですね。僕は、あまり同情してはいないんですよ。真の思想は、叡智よりも勇気を必要とするものです。マタイ十章、二八、『身を殺して霊魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と霊魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ』このイエスの言に、霹靂を感ずる事が出来たら」、あなたの悩みは消えるでしょう、と語るのである。ひとつの聖句によって物語が閉じられる、この国にもこういう小説があることを知ることに損はないであろう。この作家にとって、「トカトントン」は十字架の詞なのだろう。