祈祷会・聖書の学び ダニエル書9章1~19節

1901年(明治34年)1月2日~3日の二日間にわたって、とある新聞社が『二十世紀の豫言』と題して、未来予測記事を同紙紙面に掲載した。記事は、電気通信、運輸、軍事、医療、防災などの23項目について、21世紀までに実現するであろう科学・技術の内容を予測したものである。どの程度、その予測が実現しただろうか。

2005年度版の文部科学省発行の『科学技術白書』では、23項目すべてについて、予測が的中しているか否かを検証し、12項目が実現、5項目が一部実現、6項目が未実現と評価している。実現した技術では、電気、機械、通信、エネルギーなどの分野が大半を占め、実現しなかったものについては環境、生命科学、医療などが多い。この予測実現率を、どう見るだろうか。結構、的中率が高いと考えるか、中々、未来予測は難しいと見るべきなのか。科学・技術の分野では、人間の開発した文化文明的な事柄に関しては、確かに予測が可能だが、「環境、医療、生命」という本来、人間の技術になじまないものは、やはり実現度が低い、というのも、中々象徴的な結果であると言えるだろう。

ダニエル書の後半部分、7章以下は、前半の知者ダニエルにまつわる、「説話文学」とは趣が異なり、「黙示文学」的な記述で構成されている。主語も「わたしダニエルは」という具合に、一人称で記されているのである。

ところでそもそも「黙示」とは何か。「黙示(アポカリプス)」という言葉は、「暴露すること、露見、おおいを取り除ける」という意味のギリシャ語のアポカルプシスから来ている。題名が「黙示録」と記される書物は、新約中に収められている「ヨハネの黙示録」が有名であるが、旧約のダニエル書7~12章、イザヤ書24~27章、エゼキエル書37~41章とザカリヤ書9~12章等にも同様の描き方がされた部分があるので、この文学スタイルが、かなり長期間にわたって聖書の世界で受け継がれていたことが分かる。「黙示文学」という言い回しは、将来の出来事を示唆する象徴やイメージや数字を使用することの説明にも使われている。

なぜ、このような象徴とイメージとを用いて書かれたのか。黙示文学は、通常の直接的な言葉でメッセージを語るよりも、イメージと象徴とでくるんで、真意をあいまいにした方が、より安全である時代、つまり外部からの圧迫や干渉の強い時代に記されたということである。さらに、象徴によって時と場所の詳細がミステリーに包まれることになる。しかしこのような象徴を使った最大の目的は、混乱を引き起こすためではなく、困難な時代にあって、神に従う人々を指導し、励ますためであったと言えるだろう。黙示録の幻想的な世界観は、読む人に、困難な現在の世界を相対化し、新しく柔軟な視点を与える効果を生むのである。

ダニエル書が現在のかたちになったのは、紀元前2世紀の半ば頃と考えられている。丁度、ユダヤはマカベア時代であり、バビロン捕囚以後、政治的には国としての独立を失い、以後、地中海沿岸世界を席巻した大国の下にあったユダヤが、ハスモン家によって、一時的にではあるが、政治的独立を勝ち取った時代なのである。とはいえ、ユダヤは決してそれら大帝国と、同等に肩を並べるほどの国力を持ってはいなかった。この辺りに、黙示としてのダニエル書が記された動機があるだろう。独立を喜びつつも、これからのユダヤの国としての命運を心配し、危惧し、不安に駆られる人々に何とか励ましを与えよう、という意図である。黙示で語られる様々な象徴は、実際の歴史的事件を予言しているが、ある時代までは歴史的事実と良く合致しているが、ある時代からは、まったく予言が外れている。歴史家たちは、その端境期が、ダニエル書の執筆年代とみなす傾向にある。

今日の当該箇所は、黙示的記述の中にあって、ダニエルの「嘆きと嘆願(祈り)」が記されている部分である。「黙示」はある意味で、奇想天外な象徴的文章であるから、読む者にとって読解のために努力を強いることになる。つまり謎解きしながら読み進めねばならないのである。そこで幻と幻の間に、幕間のようにしばしの息抜き、文章の調子を変えることで、緊張をほぐすという役割を担う部分が必要になる。

ここで、ダニエルは、イスラエルの民を代表して、自分たちの罪を告白する(5~6節)。そして、当時の感覚では、エルサレム神殿の崩壊は、神ヤーウェの無力さ、主の敗北を周囲の国々に示すことになるゆえに、そのことを意識しながら、彼は、「主よ、あなたは正しくいます。わたしたちユダの者、エルサレムの住民、すなわち、あなたに背いた罪のために全世界に散らされて、遠くにまた近くに住むイスラエルの民すべてが、今日のように恥を被っているのは当然なのです。」(7節)と主張する。さらに「憐れみと赦しは主である神のもの。わたしたちは神に背きました」と語り、主の「正しさ」とは「あわれみと赦し」に他ならないことをも、併せて示すのである。神への背きは、ただ断罪によってのみ終わるものではなく、かならず憐れみと赦しが後を追いかけるというのである。

その上でダニエルは、イスラエルの罪の根本は、「律法に従って歩むようにという主なる神の声に聞き従いませんでした。」(11節)と告白するのである。ここで、「律法に従って歩む」という動詞は不定詞(ために)で、「聞く」という主動詞を補足する機能を持っている。ユダヤの独立運動の中で、律法に従って生きるために、「まず神の言葉を聞く」姿勢を培っているかを、鋭く問うのである。具体的な行動の前に、より大切なのは、主の御声を真心から聞いて、その背後にある神の愛を知るということなのである。イスラエルにとって、ただ神の慈しみだけが、頼りなのである。バビロン捕囚は、まさにこれを忘れた故に起った出来事ではないのか。

まもなく今年も8月を迎える。敗戦後76年目である。今日の個所には、エレミヤの預言「70年目の解放」が言及されているが、それは同時に「忘却」の危うさをも、意識されている言葉である。まず神の言葉を聞くことがないがしろにされ、人間の言葉だけが声高に論じられ聞かれる。そこにイスラエルの罪の典型があった訳だが、私たちにとってもそれは切実な問題である。

「幾時代かがありまして/茶色い戦争ありました/幾時代かがありまして/冬は疾風吹きました/サーカス小屋は高い梁/そこに一つのブランコだ/見えるともないブランコだ/頭倒(さか)さに手を垂れて/汚れ木綿の屋蓋(やね)のもと/ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」(中原中也「サーカス」)。私たちの現実が、本末転倒で、頭を下にただ揺れるだけになっていないだろうか。