「今や、恵みの時」コリントの信徒への手紙二5章14~6章2節

 

皆さんが小さい時の思い出を尋ねられたら、どんな記憶がよみがえって来るだろうか。家ならば、家族旅行や誕生会、クリスマス、学校ならば、運動会や遠足等だろうか。現在、こうした子ども時代の一番の思い出になるものが、できなくなってしまっていることに、大きな寂しさを感じさせられる。

「普通とちがったさまざまの経歴をもつ人も、このごろは多くなって来たけれども、大体からいうと私たちの生活は単調で、きのうもきょうもあすの日も、似よった暮し方をくりかえしている。それを後からふり返って見て、ああ生きて来たと思い知るためには、楽しい目標が必要であり、それがただ一年ずつの境を立てるだけでは、まだ足りなかったのではないかと思う」。この文章は、民俗学者、柳田國夫が1955年に上梓した『年中行事覚書』の中の一節である。この文中には「楽しい目標」と語られているが、人間はやはり、目当てとするもの、目指すべき方向がなくては、力が入らないでだらだらしてしまうというところはあるだろう。しかもノルマや義務というような「強いられて」、という目標ではなく、「楽しい」目当て、旅するときの「一里塚」あるいは「道の駅」が必要だ、という主張には納得させられる。それでは、彼の言う「楽しい目標」とは何を指すのか。それは「年中行事」であるのだという。

この国で、四季を通じ、何らかの年中行事が行われている。この国ばかりではない、どこに生きている人々も、形ややり方は違えど、「年中行事」を行って、人生にリズムをつけて、これによって生きる力を獲得している。それは確かに、生活をまったくひっくり返してしまうような大事件ではなく、些細な出来事で、当たり前に思えることも多いのであるが、その「ささやかな」ものが、生命を新しくし、はつらつとさせてくれるのである。

今日はコリント後書5章から6章にかけてお話しする。読み上げた聖書個所が、段落の途中から始まり、章を越えて6章2節までであることに、違和感を持たれた方もあるだろう。聖書を読む時に、どこからどこまでを一区切りにするか、というのは聖書解釈の重要な問題である。今日の個所で言えば、14節から長々と論じてきたことの結論が、6章2節だということにある。どこまでをひとまとまりにするかで、読みも変わって来る。

パウロはここで様々なことを論じているように見える。「(パウロは)正気でない」、「肉に従って(誰かを)知ろうとはしない」、「(キリスト者は)新しく創造された者」、「和解のために」、そして「今は恵みの時」。これら取り上げられている事柄はみな、この時コリントの教会の人々の間で話題になっていたこと、議論されていたことが反映していると思われる。パウロに対する不信や不満があり(訪問すると言いながらやって来ない)、教会員たちが人間の繋がりばかり、利害ばかり気にして動いていること、また考えや行動が後ろ向きになり、保守的になってしまっていること、さらに和解ではなく、事あるごとに、互いに相手を批判、攻撃するような姿勢になってしまっていること等、パウロの筆の間から、当時のコリント教会の様子や雰囲気が、ほの透けて見えるのである。そしてこれらの事柄は、現代の教会でも無縁な問題ではない。

一言で言えば、ここでパウロが強く主張しているのは、コリントの教会が律法主義や教条主義といった古い価値観に、逆戻りしているということである。17節「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」。よく新年礼拝に取り上げられるみ言葉である。「新しい」という用語が、二回繰り返され、強調されている。「キリストに結ばれる者」と訳されているが、直訳すれば「キリストにある人」、これは洗礼を受けたかどうかよりも、もっと広い奥行きを持った言葉である。あえて訳せば「キリストの範囲内、手の届くところにある人、ふれあう人」ということになろう。

さて肝心の「新しい」であるが、それに当たるギリシア語には、2種類の用語がある。「ネオス」と「カイノス」である。そして、ここではネオスではなくカイノスという用語が使われている。ネオスは、英語で “new(新しい)” の語源となった単語である。しかし、カイノスのほうは、そのままで英語の単語には受け継がれなかったようだ。

ギリシア語の「ネオン」 という言葉は、たとえば、何年も乗ってガタの来た古い車が壊れたから、買い換えて新車にする、というようなニュアンス、「新品」に取り替えるというような時に用いる。とにかく、全く違うものに取り変えてしまうことを意味する。他方、カイノスという言葉の意味合いをもった、私たちがよく知っている英語はないのかというと、“fresh” という言葉がそれに近いかもしれない。

パウロの時代の最初の教会は、「家の教会」であり、誰か信徒の家の広間を使って、集会をしていた。その後の時代になると、教会独自の建物を取得するようになるが、新しく教会を建築したのではない。古くなり使われなくなった公会堂(バシリカ)や公民館の建物を譲り受けて、教会にしたのである。現在でもそうした教会は、幾つもある。私が知るある教会の建物は、元々は「布団店」であった。元々ショウーウィンドウだから、礼拝堂のガラス窓は大きく、中で礼拝している様子が外からとてもよく見える。教会とは何をする場所かが、外からも一目瞭然である。その建物自体は古いが、礼拝堂として用いられるようになって、全く新しい目的、新しい役割をもって、その建物は生まれ変わったのである。

パウロは言う「誰でもキリストにあるならば、その人はフレッシュに造り変えられた者だ」。たとえ古くても、主イエスによって、人はフレッシュな存在に変わっていくことができる。今も昔も同じ人であるから、相変わらず罪も犯すし、過ちも重ねる。しかしそういう人間が、古い状態から新鮮な、真新しい状態に変えられるというのである。丁度、主イエスが最初の弟子を招かれた時、彼らは「漁師」であったが、その人たちに主はこう言われた。「あなたがたを、人間を取る漁師にしよう」。シモンやアンデレたちは、漁師であることに変わりはない。突然、王様や皇帝になる訳ではない。しかし主イエスによって、「魚」を取ることから、「人間」を取ることへと、目的や役割が変えられたのである。

但し、問題は、主イエスによって180度人生の方向が変えられたのに、人間はまた再び180度変化をして、元の木阿弥になってしまうという事が起こる。風が吹くと、そちらに向きをくるくると変える風見鳥のようなものである。人生に台風のような大風が吹くと、人間の歩む方向は揺れ動くものだ。いつもぶれずにまっすぐ歩める、などという線路を走る電車のような人はいない。しかし私たちには、その中でも、どちらに身体を向けたらよいか、何に注目したらよいか、ちゃんとその方向は与えられている。主イエスの姿と、主イエスのみ言葉、そちらに向きを変えれば良いのである。そうすれば私たちは、毎日毎時、常に新しくフレッシュになることができる。

こういう文章がある。「私達は結局できる限りのことしかできません。不満足なことですが、完全を自惚れるよりはましですし、しないよりもましとせねばなりません。尤もそれを口実に怠けないようにしたいものです。できなかったことができるようになる時があるのですから、以前の程度に満足しないようにしましょう。逆に前にできたことができなくなる時もありますが、無理することはないのです。『できる限り』はその時その時変わるものです。それは、『今に対する誠実』です」(藤木正三『福音はとどいていますか』)

「今や、恵みの時、今こそ救いの日」。神の誠実は、今日に関わっている。私たちの誠実(信仰)も、今日、この日にある。