「正しい者も正しくない者も」使徒言行録24章10~21節

春から夏にかけて、公園や野山にクローバー、シロツメクサが繁茂し、白い花をつけているのが目に付く。皆さんは、四つ葉のクローバーを捜したことはあるか。見つけるのは得意か、よく「四つ葉のクローバーは見つけると幸せになれる」とよく言われる通り、クローバーの代表的な花言葉となっている。その理由は何か。四つ葉のクローバーが「幸運」の花言葉をもつ理由は、四枚の葉の形が十字架を表すとされるからだという。十字架といえばキリスト教の象徴、「神からたくさんの幸福を授かれる」という意味で、四つ葉のクローバーは「幸運」と付けられた。なお「幸運」という花言葉は三つ葉のクローバーでも同様、三つ葉の場合はキリスト教の「三位一体」を意味しているからだという。ここまでくると、こじつけが過ぎるように思われるが。

どうして三つ葉が四つ葉になるのか、こう説明される。「人や動物に踏まれたり、濃い肥料がかかったりする物理化学的な刺激により、葉のもととなる極小さな成長点に、傷がつくことで、1枚の小葉が2枚に分かれることが考えられる。四つ葉になる可能性は、1万分の1程度の確率だとされているので、見つかりにくいが、人や動物などに踏まれやすい場所では比較的高い確率で見つかるはず」。

栃木県にある私学の校長先生は、「趣味で野生の四つ葉を集めている。一枚一枚押し葉にし、手作りのしおりにして生徒に贈る。その数、5年間で累計約3300枚になった無数の三つ葉の中に四つ葉があった時の喜び、それを探している時間そのものが楽しいという。生徒にも『何でもいい。何か熱中できるものを見つけてほしい』と願う。四つ葉は『見つけようとしゃかりにきになっていると、見つからないものです』とその校長先生は言う。『かえって落ち込んでいるような時の方が見つかるというか…』。生きがいも、そうして発見できるものかもしれない。焦らずに、諦めずに」(7月1日付「雷鳴抄」)。

四つ葉のクローバーは、何かの拍子に踏まれて、傷ついて、それで生まれる。またそれを見つけるのも、「見つけようとしゃかりにきになっていると、見つからないものです」、「かえって落ち込んでいるような時の方が見つかる」、人生の一側面のように思うが、どうだろうか。

今日の聖書個所の少し前に、使徒パウロへの辛辣な人物評が記されている。5節「実は、この男は疫病のような人間で」と語られる。皆さんは「疫病のような」という喩えに、どんなイメージを抱かれるだろうか。英語の聖書では「ペスト」というより具体的な用語が使われている場合もある。現今の私たちの抱える状況を思えば、この言葉の意味合いのリアルさもよく伝わってくるのではないか。現在なら、ヘイトのような「悪意」のこもったレッテルであるが、こんな「喩え」でパウロが、陰口をたたかれていたのかと思うと、いささか同情もするが、さもありなんと思う節もある。但し、単に「嫌な人間」という意味合いではないだろう、「質が悪い」とか「どうにも手に負えない」とか、「ひと筋縄ではいかない、やっかいな、油断できない」とか、複合的な、意味深な含みを持った言い方であるだろう。

つまりウイルスのように、小さく目に見えないから無視できるようにも思える、が、いつの間にか、知らず知らずの内に「感染」してしまい、いつか取り込まれてしまうというような感じであろうか。確かに、パウロにはそういう面が強くあったと思われるが、彼のみならず、初代教会の宣教の状況には、ひじょうに不思議な側面が認められる。当時のローマ世界に、ヨセフスというユダヤ人の軍人で、歴史家、非常な慧眼を持っていた知識人がいたが、なぜひどい迫害にさらされながらこんなにもキリストの教えが広く受け入れられるのか、「十字架に付けられた者の復活」、という荒唐無稽な教説を信じる、信者の無知蒙昧さに呆れ、軽蔑交じりに嘆息しつつ、キリスト者の信仰に大きな驚きを呈しているのである。「なぜあれ程大勢の人々が、あのナザレのイエスを慕い、愛し続けるのか、分からない」。「疫病のような」というレッテルは、パウロを超えて、当時のキリスト教一般に付けられた評価だと見なすこともできるであろう。

今日の個所は、その「疫病のような」パウロが、エルサレムのユダヤ人たちから訴えられて、ユダヤ総督フェリクスの前で弁明する、という場面である。その弁明の中心に、彼の信仰理解が見事に表白されている。15節「更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています」。正直言って、この言葉がパウロの口から出るのは、驚きである。ユダヤ教は、「義」、つまり正しさ、神の義を追求する宗教である。神から与えられた律法を落ち度なく、完全に遵守することで、神から正しい、義と認めていただける、というのが究極の人生目標なのである。パウロはこの目標に向かって、人一倍熱心に努力や精進を行った。それでいて、神から正しいと認められる確信を得たかと言えば、真逆であった。頑張れば頑張る程、神は遠くに離れ、律法を全うする道は、遥かに険しくなったのである。そしてその行き詰まりのさ中に、自ら意図せず復活の主にお会いすることになる。ダマスコ途上で、主イエスに出会い、目が見えなくなる。これは比喩的に「彼の正しさが崩れた」「これまで大切だと集中し、しゃかりきになってやって来たことが費えた」という文学表現であろう。

物事、とりわけ人間を、すべて単純に「正、邪」、「善、悪」、「真、偽」、「益、害」にきっぱり区分けするのは、乱暴であるし、事柄の本質を見損なっている。ところがこうして二分法にすると分かりやすいから、直ぐにあれかこれかで上手く決着がついた気になる。だから世論を操作しようとする時に、為政者は得てしてこの論理を突き付け、黒白をはっきりとしようとするのである。「踏み絵」や「水戸黄門の印籠」は、実に人間の目に魅力的に映るのである。

そのように生きて来たパウロなのだが、「正しい者も、正しくない者も、ともに」という言葉を自らの口で語る、というのは確かに「希望」であろう。人間は変わることができる、一徹の頑固さも、いつかは砕かれるのであると。この世には「正しさ」を越えるものがある、辺境の地、ナザレの人、主イエスが語り、生きたその「事柄」に、パウロもまた捕らえられたということである。当時のキリスト者への揶揄として貼られた「疫病」というレッテルは、まさにそういう事態を指していたであろう。

問題は、この「正しい者も、正しくない者も」という彼の確信の出どころであろう。16節「こういうわけで私は、神に対しても人に対しても、責められることのない良心を絶えず保つように努めています」。パウロはここで「良心」という用語を用いて、説明しようとしている。通常、「良心」とは、「道徳的な善悪をわきまえ区別し、正しく行動しようとする心の働き」等と説明されるが、ギリシア語「スネイデイシス」の意味は、異なる側面を持つ。「語源的には道徳的意味に制限せられない広い意味での意識、知識である。語の前綴“シン”は『すべてを』、または『ともに』を意味している。したがって、意識も知識も個々ばらばらな、ひとりよがりなものではなく、全的意識であり、共同知である」(現代倫理辞典『新しい倫理』)。

つまり、生まれつき備わっている良い心、純な魂の発露、あるいは研鑽によって得られた己の確信や了見、確固たる信念ではなく、神と出会い、人と出会い、そこで共に喜んだり、嘆いたり、喜怒哀楽を共にする中で養われた心、開かれ、広々とされた心こそ「良心」なのだと言えるだろうか。いわば「祈りの心」とも言い換えられる。大体、まことの祈りにおいて、人を区分けし、差別し、誰かを呪うことはできないだろう。

こういう新聞コラムを読んだ「『ココロイタイ』。西欧史を研究する村田奈々子・東洋大教授はギリシャ留学中に、こんな日本語を知る現地の人に幾度となく出会った。この奇妙な言葉はなんだろう。ある救出劇がこの一言を残したのではないか。村田さんは随筆でこう想像するのだ。1922年、トルコとギリシャの戦争でエーゲ海の港湾が戦火に包まれる。『スミルナ(没薬)の大火』と呼ばれ、数万人が犠牲になったともいう。この惨事で日本の商船が、ギリシャ人ら800人余りを救ったと米国などで報じられた。多くの国が自国民の救出を優先した。そんな中で日本船は絹や磁器など高価な積み荷を投げ捨てて場所を確保し、差別なく避難民を救ったとされる。助けた人々に船員が声をかける。『心が痛みます』『心の痛みはいかばかりでしょう』。こうした日本語が口から口へ伝えられ、簡略化されて私の耳に届いたのでは-。村田さんは世紀を超えた心のぬくもりをかみしめるのだ」(7月1日付「日報抄」)。

「ココロイタイ」、心の傷、痛みを通してつながる人と人の心がある。それは一時に忘れられ、記憶は消えてなくなくなるものではない。クローバーの葉も、「踏まれて傷を受けて十字架の形の四つ葉」となり、「落ち込んでいる時に、かえってそれを見つける」という。古の預言者は、来るべき救い主について「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛み」と語ったが、正にそのように主イエスは十字架で血を流され痛まれた。神のみこころは、「良い者の上にも、悪い者の上にも」、「正しい者も正しくない者にも」現わされる。ここに私たちの心は大きく開かれる。その心をもって、神と人とにつながるのである。