祈祷会・聖書の学び ヘブライ人への手紙4章11-16節

こういう話がある。「ある大学の神学部の建物に、ひとつの落書きがなされた『神は死んだ…ニーチェ』。かの哲学者の有名な一言を引用して、この科学の時代に、古臭い神学の営みが続けられていることへの揶揄である。ところが数日後、その落書きの隣に、新たな落書きが記された『ニーチェは死んだ…神』」。言葉とは、諸刃の剣であることをしみじみと感じる。発せられた言葉が、形を変えてブーメランのように自分に舞い戻って来る。

テレビや雑誌などで、「言葉の力」とか「勇気をくれた言葉」というコーナーが設けられているのをしばしば目にする。苦境に陥った人が、そこから苦労して抜け出した、あるいは難しい、困難な仕事を担い、やり遂げた人が、自分が出来たのは、この言葉のおかげです、というようなことを話している。今は、真の言葉、まことの言葉を求めている時代だと言うことが分かる。力とか勇気を言葉は与える、これはその通りだろう。もっともこの逆もある。起こって来た状況や出来事よりも、誰かから何気なく言われた言葉に、がっかりさせられることも多い。人間は本当に言葉に左右される。

ある現代詩人がこんな話をしていた。この方には高校生の娘さんがおられる。自分の友人に父親の詩を1、2編紹介したら、気に入ったようだと言う。この友人のお父さんが病気で亡くなった。友人を慰めたいのだけれど、悲しみが大きすぎて自分にはとうてい慰めることはできない。お父さんは詩人だから、言葉で生きているのだから、その悲しみを癒す詩を創って欲しい。とんでもない要求である。時に子どもはとんでもない要求をすることがある。わが家の娘もかつて「クリスマスプレゼントに、本物の魔女を連れて来てください」、とサンタ・クロースに要求していた。教師とか牧師とか、言葉で生きている人間にとって、他人事ではない。そこでこんな詩ともいえない詩を創ったと言う。一部を紹介する「今日の悲しみを、ほんの少しだけ我慢して、一日生きてみてください。そうしたら明日の悲しみは、今日とまったく同じではないでしょう。また少し我慢して1年生きてみてください。そうしたらその時の悲しみは、今とは違ったものになるでしょう」。なるほどと思う。別れの悲しみは決してなくなることはない。しかし、その悲しみも時と共に「変化」はするだろう、噛み砕くことによって、反芻することによって、思い起こすことによって、悲しみは変化をするのだ。つまり、この詩人は、時とは変化のことだ、と言うのである。この詩人の言葉をどう聞いたかは分からない。しかし、大きな悲しみを癒すにも、人間は言葉による他ないことを、改めて教えられる。

聖書は神の言葉と言う。しかしもう少し厳密に言うなら、それは「福音」である。聖書のみ言葉を読んで、ただ「罪の裁き」しか聞き取れないとしたら、それは本当に聖書を読んでいないのである。「福音」とは「喜びの音信」であるという。音信と書いて「おとずれ」と読む。誰かのところに行くのも「訪れる」という。音信と訪問というのは同じ由来である。音を連れて来る。春の訪れというが、昔の人は、実際に春の音を聞き取ったのである。雪が解けて落ちる音、凍っていた水が流れ出す音、木々の芽吹く音、冬眠から覚めた獣がいななく音、やって来るものは、皆音を立てる。誰かのお宅を訪問したら、必ず玄関で「ごめんください、たのもう」と声をかける、やって来たら音を立てる。何も言わないで、音を立てないでそっと入ってくるのは、泥棒さんである。神も来られる時には、音を立てる。ここにいるんだ、と声を掛ける。それが音信。神は喜びの音を連れて来られる。

今日は、ヘブライ人の手紙4章12-13節という短い個所に心を向けて、そこに集中したいと思う。短いが、非常に印象的なみ言葉である。神の言葉とは何か、どんなものかを改めて教えられるように感じる。短い個所なので直訳してみよう。「神の言葉は、生きている、働いている、どんな両刃の剣よりももっと鋭い。そして霊と魂(息と命、こころとたましい)、関節と骨髄を分離させるまで突き通す(心の全て、身体の全てを切り分けるように貫く)。こころにある考えと意志(気持ち)とを批評することが出来る。造られたもので彼(神)の前に露わにならないものはなく、全てのものは、彼の目の前に、言葉によって裸にされ、公開されるのである」。神の言葉は鋭い剣、わたしの身も心も全てを貫く。私の心の思いや気持ちを解きほぐして行くのも、神の言葉、神の言葉の前に私のすべてが露わにされる。聖書の言葉は、自分に都合よく、心地よく響いてくるものではない。鋭く刺し通してくる。しかしそこで私が解きほぐされ、明らかにされる。この言葉の背後には、家畜を屠り、解体し、部分部分に切り分ける作業を行った人の体験が裏打ちされている。そして人間が家畜を解体するように、神もまた、一人ひとりの人間のはらわたの底までも、究められている、と主張しているのである。

聖書は自己理解の書物であると言われる。読んでいく内に、そこに自分自身の姿が描かれているように思われる。優れた文学にはみなそういうところがある。文学に飲み込まれるのである。アダムは何千年か前の人間ではなくて、私であり、あなたなのだ。罪を犯した時に、神の顔を避けて、木の間に茂みに隠れるのは、私である。神に問われて言い訳するのも私である。その罪を他人のせいにするのも私である。そして、そのようなアダムが、それでも赦されて生かされている。十字架は罪を犯している誰かのため、ではなくて私のためなのである。そして私は十字架につけろと叫んでいる群衆の中に立っている。そういう聖書、神の言葉を、今日の聖書の個所は、語るのである。

ある化学会社の社長さんが、「砂漠の光景から啓示」(小林喜光・三菱ケミカルHD社長)という文章を綴っている。「さて、イスラエルの留学中に、冒頭でお話しした生き方が一変する体験をしました。今はエジプト領のシナイ砂漠へのツアーに出かけました。私は25歳でした。オアシスの小高い丘から眺めると、目に入ってくるのは砂ばかり。生き物のいない荒涼とした景色でした。「本当に何もない、ということがこの世にはあるのだな」と思っていると、はるかに遠くから、黒いショールをまとったアラブの女性が、黒いヤギの群れを連れて歩いてくる姿が見えたのです。何もない砂漠に1点、生きて動いているものがある。灼熱(しゃくねつ)の世界に揺らめく黒。自分の心臓の鼓動をはっきりと感じていました。全身に衝撃が走りました。私は「生きるということは、ただそれだけで素晴らしいのだ」という啓示を得たのです。15歳のときから、自分という存在の軽さに悩んでいましたが、吹っ切れました。そして、「徹底的に燃焼して生きて、自分でしかできないことをやろう」という使命感を抱くようになりました」。この方は荒涼とした砂漠の中で、生き物ひとつ見えないような、何もない所で、実に命そのものに出会ったのである。何もない所で、それでも生かされている命。この方ははるか聖書の世界、シナイの荒れ野で、神の言葉に出会った。「生きるというのは、ただそれだけで素晴らしい」。しかし、私たちは、シナイまで行かなくてもよい、お金と健康と時間とその気があれば、言っても良いかもしれないが、聖書において、すぐに神の言葉に出会う事ができる。さらに、そのように命を与え、生かして下さっている方が誰なのかも、知ることが出来るのである。

神の言葉は鋭い剣、わたしの身も心も全てを貫く。私の心の思いや気持ちを解きほぐしてゆくのも神の言葉、神の言葉の前に私のすべてが露わにされる。神の目の前には、すべてが明らかである。隠しても仕方がない、そこに聖書の語る「あるがまま」がある。