祈祷会・聖書の学び ヘブライ人への手紙8章1~13節

教会ではいろいろな人たちとの出会いがある。様々な地方からの出身者、あるいは海を越えて外国から来た方々と知り合い、触れ合えるのも、その特色のひとつであろう。以前、こんな出来事があった。仕事のためにアメリカからやって来たひとりの人が教会を訪れた。来日してまだ間がないので、まだそれ程、日本語が十分理解できる程には慣れていない。幸い、教会に英語に堪能の人がおり、通訳をしてくれて、皆が挨拶や自己紹介などを交わして、楽しい交わりのひと時を持つことができた。集会の後、親しい友人たちと近所のファミレスで昼食を摂っていると、そのアメリカ人が店に入って来たのである。教会での顔を合わせたところなので手招きをして、同じテーブルについたのは良いが、お互いのコミュニケーションをどうするか、おしゃべりもせず沈黙している訳にはいかず、こちらは不慣れな英語で話をし、かのアメリカ人は何とか知っている日本語でそれに応答する、というぎこちないやり取りが始まったのである。

はた目には、奇妙な光景に写ったであろう。他愛もない話題ながら、それぞれが母国語でない言葉を何とか苦労して使いながら、理解し合おうと努めているのである。その時ほど、「ことば」の持つ役割の重要さ、有難さを感じたことはなかったのである。さらには通じ合えたことで、心温まる経験もなかったと言えるだろう。

「インターフェース“interface”」という用語がある。辞書で調べると「(異なるものの)接触面,界面」という意味が記されている。最近は、コンピュータ関連の用語として口にされることが多い。「二者間で情報のやり取りを仲介するもの」と説明されている。人と人とが、コミュニケーションを行い、理解し合おうとするなら、そこに必ず両者をつなぐ橋のような「媒介」が必要である。心、あるいは脳内での思考は、直接に他の人に伝えることはできないから、何か伝える手段、橋渡しの役割を果たすものが必要である。多くの場合「ことば」が用いられるのだが、それは世界で使われているいずれかの言語というだけではない。音楽、絵画や映像、匂い、味、あらゆるものが「ことば」としての役割を担うのである。

コンピュータは大量にありとあらゆる情報を伝達できるが、その源は「0」か「1」の二進法の数字の羅列である。そのままだと、私たちにはすぐに了解できないので、何らかの手段によって、容易く理解できるように、具体的に表現し伝達する媒介が必要となる。それを便利に表示するものが、モニター画面であり、それに情報を文字や映像に写して、さらには音声も加えて、併せて伝達する、これを「インターフェース」と呼ぶのである。

「インターフェース」では受け取る者の負担をできるだけ軽減するようにしたい。そうしないとせっかくの理解しようとする気持ちを萎縮させ、心を疎外してしまうことにもなりかねない。だから現代は、人と人との相互理解を始めとして、あらゆる事柄に、より良い、もっと言えばやさしいインターフェイスの工夫や開発が必要な時代である、と言えるだろう。

さて「主イエス・キリストとは誰であるか」という問いは、教会誕生と共に、さまざまに思考されてきた教会の課題である。この「問い」は、教会の内外からしきりに投げかけられた事柄であり、迫害の中で、自分たちの信仰の内容をきちんと説明し、自らの正当性を「弁明」する必要もあったのである。それらの問いのひとつが、キリストの「職務」について、であった。現在でもプライバシーに十分留意しながら、「あなたは何をしている人か」、つまり「どんな仕事をしているのか」とその内容を尋ねることは、挨拶のように行われている。「仕事」は、その人のアイデンティティを表す大切な要素の一つであるだろう。そのように、キリストはどのように働かれるのか、どのような仕事をなさるのか、何をなされるのか、と世間から問われたことは、当然と言えば当然だったろう。

今日の聖書個所では、「大祭司としてのキリスト」という主張がなされている。古の

イスラエルの神殿祭儀において、大祭司の務めは重いものであった。神殿の最奥にある至聖所の前で香を焚き、人々の罪の赦しのために、犠牲の供物を焼いて献げ、人々の罪の贖いのために祈ることが、大祭司の最も大きな仕事であった。つまり神と人々の間に立って(インターフェース)、即ち「破れ口に立って」(詩106編23節)、神への「とりなし」をおこなうのである。諸々の罪のゆえに、神の怒りを前に、おのが身を挺してなだめ、人々に対しては神への悔い改めを促す、という務めである。毎年毎年、大祭司は「祭り」のに度毎に、人々と神との間に立つインターフェースの務めを行ったのである。

ところが、紀元70年に起った「ユダヤ戦争」によって、ローマ軍はエルサレムを攻撃し、神殿の地の基までも覆し、徹底的に破壊し尽くしたのである。「ヘブライ人への手紙」が記された時代には、もはや神殿は跡形もなく、祭儀も行われていなければ、大祭司もまた不在なのである。教会にとってもこの事実は大きかったと言えるだろう。神と人との間にあって、ひたすら執り成すことによって、神を人とをつなぐ仕事をする誰かがいなければ、もはや私たちは、神と関わりを持つことはできないのである。

もはや私たちには、罪の「破れ口に立って」、人間と神との間を取り持ち、取り成しを行う存在を失ってしまったのか。11節「彼らはそれぞれ自分の同胞に、それぞれ自分の兄弟に、『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わたしを知るようになり、わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」。古の預言者によって語られた神のみ言葉である。

主イエスが十字架に付けられ、息を引き取られる時、神殿の奥の至聖所を隔てる幕が、真っ二つに裂けて破れた、と福音書に伝えられている。この隔ての幕の前に立って、古の大祭司はなだめの香を焚き、とりなしの生贄を捧げたのであるが、幕が裂けたことによって、神と人とは直に出会い、つながることが可能になったことが象徴的に示されている。もはや人間の誰かが、大祭司の務めを担い、働く必要はないのである。神の独り子が、十字架に付けられ、神のみ前に御子の血が注がれたことによって、今や神と人との隔ては、取り除かれたのである。

インターフェイスは、できるだけやさしく、あたたかく、容易であってほしい、これはいつの時代にも求められる願いである。神はその願いを祈りとして、主イエスにおいて、実現させてくださったのである。