祈祷会・聖書の学び マタイによる福音書14章1~12節

子どもをだめにする一番の方法は、「望むことを、何でも、すぐにかなえてやること」だと言われる。物が乏しい貧しい時代には、与えたくてもできないので、「あきらめるしかない」訳で、ことは簡単と言えば簡単だが、ものが有り余る時代に、我慢させる、忍耐させるというのは、親も子も相当なエネルギーを要するであろう。「ない」ことは辛いことだが、「ある」ことはもっと大変かもしれない。

ある家庭で、子どもがひどい反抗をし、問題行動に走る。親は言う「お前のために何でも買ってやって、何でもしてやったではないか」、すると子どもがこう言い返したという、「この家には宗教がない!」。「宗教」とは、既成の何々教というものを指しているのはなく、もっと象徴的なことばであろう。「愛」とか「寛容」とか「思いやり」とか「悔い改め」というような、欲得や利益を度外視した人間としての砕かれたあり方を,ひとことで言わんとしたのだろう。人は既成の宗教を嫌うかもしれないが、「宗教性」は今なお、こころの底の真実な希求であるのかもしれない。

今日の個所は、バプテスマのヨハネの最後を物語る伝承である。民衆の心を捉えるカリスマは、得てして統治者、支配者にとっては厄介な存在である。うまく手なずけられれば、自らの政権維持に寄与するであろうが、反目すれば政権批判を引き起こしかねず、下手にその命を奪うとなれば、ややもすれば民衆の怒りに火を注ぎ、一斉蜂起をも招くだろう。ましてカリスマは神からの特別の加護を受けていると見なされるので、猶更である。主イエスはこの領主のことを「キツネ」と呼んでいる(ルカ13:32)が、それは「猜疑心が強く、小心者」だが、「慎重な策略家」というような人物評であろう、決してほめているわけではないが。自分に都合の悪い批判を語り、巧みに民衆を扇動するこのカリスマを、どうしたものか考えあぐねていたのである。

ところが、運命の輪は、思わぬ時に回転を始めるものだ。6節「ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた」と記される。マタイが準拠したであろうマルコ福音書には、もう少し子細にその時の状況が伝えられている。「ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた」(マルコ6章21~22節)。即ち、洗礼者の殺害は、宴会の席上での余興を端緒にしてなされたという。

ヘロデはつい口が滑ったのか、太っ腹なところを客人に自慢しようとしたのか、ステロタイプな「娘に甘い世の父親」の如く、「願うものは何でもやろう」と約束してしまうのである、しかも客人たちの目の前での「誓い」、である。もう取り消しはできないだろう。しかし、そういう約束をついつい口にしてしまう心理もまた、分かる気もする。同情はできないにしても。そして衆目の面前での「誓い」を盾に、策略家のヘロディアは一気に厄介者の禍根を断とうという魂胆を顕わにする。

8節以下「すると、娘は母親に唆されて、『洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください』と言った。王は心を痛めたが、仮にも父親として娘への約束ではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った」。娘はこんな預言者の生首が欲しかったのではあるまい。ただ「母に唆されて」願っただけのことである。この辺りのくだりも、人間のありのまま、深刻な課題を、「物語」という形で巧みに語ろうとしているのではないか。

「何でも望みのものを」と言われて、自らの心からの応答なら、少女は何と答えただろう。結局、私たちの人生の願いというものは、誰かの唆かし、サジェスチョン、誘導によって、そう考え、そう答えているだけのことかもしれない。それが自分からのものだと刷り込まれて、思い込んでいるだけである。こんな生首を貰ったところで、どうなるというのか。それでもそれを願う、それで幸せになるというのでもないのに。

マルコによれば、この場は王の誕生日の祝いの宴の場だったという。地位のある大勢の客が招かれ、宴卓には、古今東西の珍味佳肴がふんだんに並べられていたことだろう。権力と富と美食と地位と名誉、そのすべてが、この宴には凝縮されているのである。その申し子である少女が自分の人生において願うものとは、何であるのか。「神の人」の生命ならば、それをさらに潤せるとでもいうのだろうか。しかし人間の過誤、罪は、ここに極まるのである。もはや何事も、まことに願うものがない、希望や幸いを育むようなことを、何ひとつ願うことができない、これこそ人間の最大の哀れさではないのか。ではあなたなら、何を願うのか。

終活が語られる現代、それは人間のついの願いの表現であろう。葬儀や葬りの方法に、いろいろ前もって希望を語られることは、後に残される者たち、特に家族にとっては、幸いなことであろう。但し、願いはどんなことでもそのまま実現することはない、と承知した上のことではあるが。最近、「バルーン葬」と命名されている葬りのやり方があるという。それを請け負う葬祭業者のHPにはこう説明されている。「バルーン葬の『バルーン』とは、直径2~2.5mほどの大きな風船のことです。このバルーンへ粉状に砕いた遺灰をつめて、空へ飛ばします。バルーンは2~3時間程度で成層圏と呼ばれる上空までたどり着くと、気圧の変化で数倍に膨らんで破裂して散骨されるという仕組みです。成層圏で散骨された遺灰は偏西風に乗り、地球の上空を漂い続けます。ご遺族は空を見上げるたび、この壮大なロマンのもと故人様を偲ぶことができるのです。なお、バルーン葬での散骨は大気圏の中で行われるので、遺灰が宇宙へ放たれることはありませんが、広い意味での宇宙葬として認識されています」。人間の願いや望みは、宇宙にまで広がるということか。

この血塗られたヘロデの宴会に続いて、物語は「五千人の給食」へと連なっている。「(主イエスは)五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった」。「すべての人が食べて満腹した」、人間のまことの願いは、ここにあり、これを知り、これを与える方が確かにおられることを、いつも思いたい、そしてほんとうに必要なものをその方に願いたい。