「山に入れば、みんな仲間」ということだろう、山登りをすると、山道をすれ違う未知の人々に、「こんにちは」と声を掛け合って歩くことが、慣例である。登って登って疲れ果ててへこたれていると、「もう少し、もうじき」と暖かな声援をもらうことも珍しくはない。ところがその「遠くない」は、正確に距離がどれくらい、とか、所要時間がどれ程とかいう、決して「近い」ことを意味してはいない。あくまでも「励まし」の言葉なのだ。それでもそういって励ましてくれる人が居ることは、何とはなしに心強いであろう。
「遠くない」という言葉を、どう受け止めるだろうか。受験やスポーツの大会で「合格点には遠くない」「記録には遠くない」とは可能性を示唆する期待の持てる言葉だが、決して「合格・入賞」ではないのである。ほんの一点やコンマ一秒で、合否や勝利が分かれるともなれば、どうか。もっとも「補欠」あるいは「敗者復活戦」というチャンスもないわけではないが。
以前、招聘されていた教会は、設立当初は田圃の中の「ぽつんと一軒家」のような場所に建てられていたという。初夏の頃になれば、蛙の大合唱がうるさいほどだったという思い出が、今も語られる。ところがその後、教会の周囲には住宅が次々に建てられて、いつか教会堂が隠されて見えなくなってしまった。住宅地だから目ぼしい目印とてなく、教会までの道のりを説明するのに、いささか難儀をするという有様となった。正確に言えば、遠くからだと教会の塔の上の十字架が見えるのであるが、近くに来ると見えなくなる、これは(距離的には)「遠くない」のだけれど、(心理的には)「近くない」ということでもあろう。「行きやすい」というのは、必ずしも「距離」だけを指す概念ではない。だから「一度遠くまで戻って、そこで方向をもう一度確認して、お出でください」などと一風変わった道案内をする必要があったのだが。
今日の聖書個所は、新共同訳で「最も重要な掟」と題されている段落から、「やもめの献金」までの一連の流れの個所である。そしてこの2つのエピソードが、密接に関わる文脈を形づくっている。旧約の600以上あると言われる膨大な律法は、すべて「神の戒め」であるから重要であるにしても、皆一様に同列に置くことはできない。人の世に序列があるように、どれが最も重要な戒めであるか、という議論がユダヤ教の歩みの中で問われたことは、首肯される所である。確かにどれが一番か、という議論は、この世の談義の恰好なテーマになる。人間は格付け、順番付けが好きなのである。順番を付けて分かったつもりになる。分かったところでどうにかなる訳ではないのだが。
「あなたはどう思うのか」と問われて、主イエスはこう答えている。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」。巷間では「黄金律」とも呼ばれるが、主イエスの答えは、決して風変わりなものではなく、当時の律法学者の間での議論でも、普遍的な判断、答えであったのだろう。だから律法学者はこう返している。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」。
そこで、さらに主イエスが彼に語った言葉が考えさせられる。「イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。「神の国から遠くない」、という言葉を皆さんは、どう受け止めるのだろうか。ここでの主イエスの言葉は、決して冷たく突き放す態度ではなく、却ってこの優等生的な評価をしている律法学者を、温かく受容している、と言えるだろう。
そこで「やもめの献金」の逸話がそれに付け加わるのである。41節「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた」。この時、主イエスは神殿の献金箱の真向かいに座って、じっと金を投げ込む人びとの様子を見ておられたという。随分、あからさまな態度である。「あなたの宝のあるところに、心もある」と語った主である。そこに人間の真実が最もよくあらわれるからなのだろうか。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」。これは決して献金の勧め、強制という話ではない。生活費全部とは言うものの、この世的には二レプトンは、雀の涙である。俗的な視点からすれば、「神の国」とはきらびやかな王宮のような場所で、贅沢な衣装をまとい、優雅な生活を営む選良?の居場所というイメージゆえに、「二レプトン」は「遠くない」どころではない、足下にも及ばない、であろう。しかし主イエスのこころには、このやもめは、すでに「神の国の住人」なのである。もし神の国ふさわしい人が居るとすれば、彼女をおいて他にない。
決して「遠くない」のだが、そこに「入っていない」、即ちその中で「生きていない」という立ち位置をどう考えたらいいのだろう。中途半端な立ち位置を、厳しく「生ぬるい」とか「不誠実」とか批判して、断罪することもできるが、そんな高飛車の言い方をすれば、だれも「神の国」に入ることはできない。わたしたちは程度の差こそあれ、「生ぬるい」し「不誠実」である。それでも、ある事柄の、その渦中に置かれ、生きているなら、しんどさたいへんさはあるだろうが、その中でしか味わえない「喜び」をも直接に知ることになるだろう。「喜び」なしに、人は真実に生きることができるのか。
こういう文章がある「『神は愛である』と言います。その言葉が真実なら、それを言う人は神に愛されている暖かさを味わっているはずです。しかし、その経験がないのなら、この言葉は神について思索した、その結果を言っているだけで、実際に神を知っていることとは無縁といわねばなりません」(藤木正三『福音はとどいていますか』)。このひとりの律法学者はどうだったろうか。またレプトン二枚、生活費のすべてを賽銭箱に入れた貧しいやもめはどうか、そして、わたしたちはどうなのだろうか。