「母が来て、願おうと」マタイによる福音書20章20~28節

最近、こういう文章を目にした。「食べものを仲間のもとへ運んで一緒に分かち合う。そんな文化を持っているのは人間だけだという。極北アメリカからグリーンランドにかけて暮らすエスキモーには、ちょっと変わったルールがある。狩りで取れた肉や魚を分けてもらっても、決してお礼は言わない。礼を言えば贈り物をくれた人の奴隷になる、というのである。もらった方は『お返しをしなければ』と負い目を感じ、支配される関係になる。与えることは義務、もらうのは当然の権利。そう考えれば格差は生まれず、社会は円満なのだと。日本にも似たような文化がないではない。贈り物をもらって、すぐ返礼をするのは『二度と贈らないで』と言外に拒絶を意味しているのだとか。相手への感謝を忘れないためには、受け取ったままの気持ちの負担に耐えなければならない」(3月11日付「有明抄」)。

「贈り物を受け取るとは、心の負担に耐えること」とはいうものの、今の私たちからすれば、「礼、ありがとう」を言わないのは、余りに無礼で頑な、高慢と感じられるが、やはり厳しい自然の中で生き抜くためには、そこに生きる皆が力を合わせ、皆で支え合わなければ、共倒れになってしまうだろう。とりわけ文字通りいのちの糧である「食べ物」を独り占めしたり、それを人間関係の駆け引きの材料にしていたら、必ずお互いの間に争いが生じて、殺し合いにまで発展する可能性がある。それを回避するために、その根元のところでなんとか歯止めを掛けようというぎりぎりの知恵が、こうした習慣を呼び起こしているということである。

そのようにひとりだけで生きることが難しい人間たちは、集団や社会を作って数の力で生き抜くことを選び取った訳だが、やはりそこにいる人々に声を掛け、ひとつの方向に目を向けさせ、行動を促す役割は、どうしても必要になるだろう。この国の明治の進歩的知識人のひとりは、「天は人の上に人を創らず云々」と説いたが、それでも何らかのリーダーシップ(号令役)が求められるのである。そして現代は、このリーダーシップ性(あり方)が強く問われている時代なのであろう。どのようなリーダーが、皆に幸いをもたらすのか?

今日の聖書個所は、マタイ福音書20章20節以下であるが、非常に興味深い内容をもっている。初代教会での議論、さらにはマタイ独自の視点がよく描かれているテキストでもあろう。他の福音書にも同じ記事があるが、マタイにしかない情報が伝えられている。独自な情報は、それを伝えている人の一番の問題意識がそこにあるということである。そして、初代教会で、こういう事柄が取りざたされていたということだろうから、極めて興味深い。

20節「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした」。ヤコブとヨハネの兄弟の母親が登場する、しかも自分の息子(雷兄弟)の出世のために、である。一説にこの母親は、サロメという名で、主イエスが十字架から取り下ろされる時にそばに仕え、墓に収められて三日目に、香料を携えて墓に赴いた女たちのひとりだったという。強盗たちと一緒になって処刑された犯罪人の最期を看取る、というのは、やはり肝の据わった母だった、ということか。

その母が何を願うのか、「王座にお着きになる時、この二人の息子が、一人はあなたの右に、ひとりはあなたの左に座れるとおっしゃってください」(21節)と懇願した、というのである。「母親がやって来て」、この文言は、マタイにしか記されていない。皆さんは、著者が敢えてこう記した意図がどこにあると思うか。多くの説教者たちは、この母親の態度について、「愚かな」、「恥知らず」、「あまりに人間的」、あるいは「クレーマー」等と批判する向きが多い。

このようなネットの投書、そして同様の意見がいくつも記載されている。「保育園や幼稚園の発表会って、こんなに沢山の主役がイッパイいるのですか?先週の日曜日に息子の通っている保育園に発表会を見に行きました。年中さんや年長さんは各クラスごとに劇をします。(年中で1クラス25人くらい×3クラス)、シンデレラで姫役が3人、さらに王子さまが3人、同時に出てきて、まずはビックリ!「桃太郎」劇も桃の中から4人の桃太郎が出てきました!(家来も各2人ずつ)極めつけは赤ずきんちゃんが7人同時に出てきて、話がなんだか分かりません。ちなみに、悪いオオカミは、担任の先生がその役をしていました」。どうも保護者(お母さん?)がそれとなく担任の先生に頼むらしいのだ。子どもの劇なら、皆(子ども達)が楽しめればそれでいいのだから、あまりに登場人物が、ストーリーの展開が、と眉を顰めなくてもいいだろう。

初代教会で、教会のリーダーの座を巡って、こうした動き、今で言うロビー活動があったかどうかは分からないが、実際、出エジプト記や使徒言行録には、モーセなり、使徒といった事の成り行き(瓢箪から駒)のようにリーダーとなった人々が登場する。そして彼らのところに、人々が悩みや不満や問題を持って押しかけて来て、リーダーが過労でつぶれそうになる、という事態が描かれている。だから誰が上に立って指導し、捌いて、判断し、というリーダーシップの問題が、喫緊の課題となっていた、ということかもしれない。そういうところで母親の登場、なのである。

この息子たち、ヤコブとヨハネは、主イエスの最初の弟子たちである。やはり主はこの二人に対して格別な親近感を持っていたようで、シモン・ペトロと同じく、愛称(ニックネーム)を付けて呼ばれていた。「ボアネルゲス」(雷の子ら)、この愛称を聞いて、二人がどんな人物か、ある程度、想像できるだろう。「雷の子のような」とは、おそらく気性の激しい、かっとなりやすい、雷のような荒っぽい性格の者たちではなかったか。そしてこの兄弟を育てた実の「母親」がここにいる。どんなカーチャンであろうか。主イエスはこの母(すでに老母である)、をどう思い、どう受け止めたのか。

マタイは多くの説教者が断じるように、この母の振る舞いを「非常識、愚か、恥知らず」と一方的に批判しているのではない。実際に、主イエスは訪れる人に、突慳貪な冷たいあしらいはなさらなかったろう。そして、おそらくはマタイの教会の中に、ゼベダイの息子の母親のような、こういう人物、子どものことを思い、いろいろ教会のお世話役に、なんだかんだ要望して来る親たちがいたのだろう。そういう親たちに、マタイもお世話役のひとりだったろうから、厄介には感じても、その勇み足を批判して終わり、ということはなかったろう。そればかりか、この文章には、兄弟の母の訴えに、主イエスがどう対応されたか、が見事に伝えらえている。

まず主イエスは「何が願いか」と問うて、母親の願いに、しっかりと耳を傾けている。次に今度は当事者(兄弟)にも、それが本当かどうか、確認している。「わたしが飲もうとしている杯を飲めるか」。そしてさらに自分たちの方向性(めあて)を、示すのである。「あなた方の中で偉くなりたいものは、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆の僕になりなさい」。学校現場にいた者のひとりとして、この主イエスと母とのやり取りは、保護社対応の見本とも言うべき、あるいはクレーマー対応の手本というべき姿が記されている」。

しかし問題は、教会で、どうしたらクレーム対応が上手くいくか、ということではない。22節「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」、問題はこのことに尽きる。親は子どものことを思って、いろいろ願う。また子どももまた自分の道や将来について、いろいろ願いを持つ。この世でも、教会の中でも、それは変わりない。良かれと思い、それが幸せだと思い、それがみんなの為にもなると思って、様々な願いを持つ。しかし願いはいつも叶う訳ではない。思い通りにならない、一生懸命やったのに結果が出ない。子どもが言うことを聞かない、親の頭が固い、皆に理解がない、支えてくれない、冷たい、さまざまなクレームとなって噴出する。その根本にある事柄は何か。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」。何が分かっていないというのか。

一言で言えば、主イエスの「十字架への道」である。主イエスは、ご自身のみわざの帰結として、十字架への道を歩まれた、その愛の成就として、十字架で苦しむ道を目指されたのである。ローマ皇帝はじめとする権力者は、すべての人の上に立って、命令を下し、剣によって、人々を足下にひれ伏させて、富を収奪する。皆が、誰が一番か、誰が二番か、虎視眈々と権力への道を窺う。それで平和と安心が生まれただろうか。しかし、主イエスは、すべての人の身代金として、ご自分の生命を、十字架で捧げられた。だから人生での「願い」が、人の真実とかさなり、神のみこころと繋がっているか、私たちは主イエスの十字架を見上げて、自らに問わねばならない。何が真に幸いに至る道なのか。

先ほどの文章の続きをもう少し、「再び海の向こうを眺めると、『さんざん支援してやったのに敬意が足りない』だの、大国が戦時下の小国に難癖。『お返しは?』と迫りながら停戦を探っている。世界は円満にほど遠いようである。『エスキモーの世界では…』などと言い訳が通用しない相手は、取引好きの大統領に限らない。先人は円満の秘(ひ)訣(けつ)を教えている。『うまいことを言う人より、うまいものをくれる人を信じなさい』と」。主イエスはうまいことを言う人、喜びの福音を語る人であったが、なお、うまいものを与えてくれて、それを共に食べ、この上なく福音のおいしさを教えてくれる方でもあった。お返しを求めないばかりか、無償で私たちの罪を担い、御国への道を開いてくださった。この方のただお側にいたい、それが私たちの祈りであろうし、母の真実な祈りでもあろう。