教会の暦では、今日は「灰の水曜日」と呼ばれ、「受難節(レント)」の始まりの日とされている。ユダヤ教の四旬節の伝統に倣って、教会はイースター(復活祭)前日までの40日(日曜日を除く)を、主イエス・キリストの受難を偲ぶ期間として、断食等の節制を心掛ける期間と定めた。年によってイースターの日は変わるが、受難節の開始は必ず「水曜日」に当たることになる。受難節の最初の日だから、やはり信仰の襟を正そう、という訳で、各々の罪を自覚し、悔い改めの心を涵養するために、聖書の民が「塵灰」を被って悔いた故事を範として、「灰の儀式」を行うようになったのである。
カトリック教会では、この日、ナツメヤシや棕櫚の枝を燃やしてできた灰を司祭が取って、ひとり一人の信者の額に、十字架の形に塗布する。さらにこの日は、受難節の始まりであるから、「断食・節制」を行う。ところが年の巡りによっては、「灰の水曜日」と「バレンタインデー」が重なることもある。2018年には、第二次大戦以来、初めて2つの暦が重なり、カトリック教徒たちが、チョコレートとシャンパンのごちそうか、断食の務めかの選択を迫られているとのニュースが伝えられた。
ヨエル書は1~2章、3~4章の2つの部分に区別され、それぞれ異なる時代に語られた預言が配置されている。前半は、いなごの害と干ばつによる飢饉が告げられ、後半は終末を告げる黙示文学的な記述である。今日の個所は前半の結論部分を形成する文学ユニットの一部である。
昨年マスコミによって、アフリカ、インド地域での深刻なイナゴの大発生が伝えられたが。アフリカでは、繁殖した農地に空からヘリコプターや飛行機などで殺虫剤を撒くか、あるいは、大群になる前に、幼虫の段階で駆除するという。今まで5000億匹ほどのイナゴが駆除された。現在、人間は地球上に、約78億人いる。そのざっと64倍ものイナゴを殺処分したことになる。4月の推計によると、エチオピア、ケニア、ソマリアだけでも、2500万ヘクタール以上の耕地にイナゴの被害が出ている。日本の耕地は約444万ヘクタールだから、約5.6倍ということになる。イナゴに食糧を食い尽くされて、人間の食糧危機が起こるのは必至だし、生態系にも大きな影響があるといえるだろう。
なぜイナゴが大繁殖するのか。半砂漠地帯で大雨が降ると、爆発的な増殖を引き起こす。好条件が満たされると、指数関数的に繁殖して増加する。ある世代から次の世代には、イナゴの数は3ヶ月で20倍、半年で400倍になる。孤立したイナゴは無害だが、一旦群集行動を起こすと行動を変えてしまう。そして、作物を荒廃させる巨大な大群を形成する。これがイエメンで起き、その後、大群はイラン、パキスタン、インドに広がり、同時にアラビア半島の他の地域や東アフリカにも広がっていったと言われている。
こうした現代のイナゴによる甚大な被害は、聖書の時代にもまったく同様に生じていたことを、ヨエル書から知ることができる。1章4節にあるように、容赦なく田畑を荒廃させるイナゴの生態を記した記述は、今に生きる私たちの背中を、寒からしめる迫力があるだろう。そして預言者はこれを、神の裁きのあらわれとして告げるのである。確かに人間の起こす戦争は、国を荒廃させ、幾多の無辜の生命を奪うものであるが、自然の猛威は、それ以上に人間生活の営みを破壊し、破滅に追いやるのである。しかも、肝心の人間たちは、その危機の中で眠りこけるのである。1章5節の預言者の警句は、今の私たちの状況にも当てはまる痛烈な言葉である。「酔いしれる者よ、目を覚ませ、泣け。酒におぼれる者よ、皆、泣き叫べ。泡立つ酒はお前たちの口から断たれた」。
今日の聖書個所、2章12節以下のみ言葉は、「灰の水曜日」に読まれる聖書日課のひとつである。「主に立ち返れ」という呼びかけにあるように、「悔い改め」とは、神に向かって方向を変えることとして、端的に語られている。イスラエルの人々は、「悔い改め」をただ心のあり様の問題としてだけでなく、目に見える外的なふるまい(パフォーマンス)としても表現したのである。イスラエル人は、身体と心は一体であり、内面と外面は表裏一体であることを自覚していた。身体が病めば、心は痛み、心が病めば身体も不調となることは、今の私たちにも言えることである。だから癒しとは、身体だけ、心だけの問題でなく、全人的な働きかけが必要となる。主イエスも病気の人の癒しの中で、しばしば「あなたの信仰(ピスティス)があなたを救った」と告げるが、それは強い信心によって癒しが生じるというのではなく、病が心身両面の問題であることを語っているのである。心の誠実さ(ピスティス)つまり健やかさは、身体にも働くのである。
イスラエルにおいては、「悲しみ」の表象として、「断食」と「衣を裂く」、そして「塵芥の中に座す」という行為によって示すことが常であった。衣食住は、人間の生存にとって必要不可欠の事柄である。この3つを否定することによって、「悲しみ」がこの世の尋常を超えて深いことを示し、さらに生命を敢えて危機にさらすことで、その力を逆説的に賦活化させようという意図であった。つまり生命のぎりぎりのところに自分を追いやることで、自らの心と身体をもって呻き、神に訴え、祈るのである。それゆえに己の罪を嘆き悲しむことが、「悔い改め」に通じるのである。
しかし預言者ヨエルは、ここで悔い改めの表現として、「衣を裂く」のではなく「心を引き裂く」ことを求めている。悲しみの表象としての「衣食住」の否定は、元来、イスラエル人の激情性という気質から来ているであろうが、やはりいつか「パフォーマンス」、演技に陥るきらいもあったであろう。律法の厳格な遵守という精神が、主イエスの時代、「律法主義」に堕してしまったように、ここでもヨエルは、「悔い改め」が年中行事のように習慣化してしまい、腹の内では高ぶっている有様を、厳しく指摘するのである。
預言者は真実の悔い改めがなされた時の、神のあわれみに期待するように、人々を励ましている。神はイナゴ禍によって、すべてを荒廃と灰燼に帰せられるのではなく、祝福を残しておいてくださるという希望が語るのである。いわば「残りものの祝福」である。虚しく費えたように見える事柄に、残りのものが残され、それが神の祝福によって、再び生命を息吹かせるのである。それは主イエスの十字架に示された復活の光にも通じているであろう。それこそ現代のさまざまな災厄や困難にもまた、響いているみ言葉ではないか。