「誘惑を受けるため」マタイによる福音書4章1~11節

先週の17日は「灰の水曜日」で、受難節の始まりを告げる日であった。今年も、昨年に引き続きの「コロナ禍」での受難節である。少し前の2018年は、2月14日が「灰の水曜日」であった。第二次大戦後、初めての暦のめぐり合わせだったらしい。この時、欧米のクリスチャンの間に、ひとつの議論が生じた。それは「受難節(の始まり)」と「バレンタインデー」のどちらを優先すべきか、である。前者なら「節制」、カトリックでは断食を行う、後者なら「享楽」、家族や友人たちとのパーティを開く、どちらを選ぶべきか、悠長だが切実な大議論となった、と伝えられた。今にして思うと、呑気な話で、それから数年後の「禍」を誰も意識していなかった。

コロナ禍など最近よく使われる「禍」は、訓読みで「わざわい」と読む。思いがけずに受ける不幸や災難、その原因を意味する。同じ意味で「災」の字があるが、辞典を引くと、両者は厳密に使い分けられている。「災」は自然災害など防ぎようがないものを指している。一方「禍」は人為的な努力や工夫で回避できる事象などに用いられる。戦禍や車などにはねられる輪禍、文章による筆禍などが例だ。最近でも言葉による禍、舌禍が話題になったばかりである。中国の故事に、「病は口より入り、禍は口より出ず」という警句がある。主イエスも同じように、「口から出るものが人を汚す」と言われた。病気は口からの感染や飲食の欲から生じ、禍は言葉を慎まないから起きる―という戒めの言葉だ。いつの時代でも気を付けることは変わらない。日本語の「わざはひ」とは、『岩波古語辞典』によれば「ワザ(隠された神意)+ハヒ(這うように広がる)」が語源で、「いましめる神意のきざし」が原義と説明されている。「災厄」を、のど元過ぎれば、で忘れるのではなく、そこから生きる天からの知恵を身に付けたいものだ。

受難節の始まりの聖日には、福音書の「荒れ野の誘惑」の記事が読まれることになっている。主イエスの荒れ野での苦しみを偲び、キリスト者は断食を行って、受難節を迎えたからである。共観福音書のどれにも、長短はあっても同じ出来事の記述が記されているが、マタイの独自性は、荒れ野に赴いた理由が、「悪魔から誘惑を受けるため」だと強く主張するところにある。他の福音書は、古来からの聖者伝説に倣って、「荒れ野で断食をして(悟りを開くために、欲望と闘う)苦行する」という描き方である。しかしマタイは「悪魔からの試み」こそが、荒れ野への旅の動機だというのである。

「荒れ野で悪魔が試みる」、とは実にお似合いの舞台設定ではないか。ひとり、誰もいない所、他の人間の目が届かない所、人間生活の営みや保護とは、およそ無縁の場所で、しばらく時を過ごす、放っておかれる。人はその時どうなるのか。「小人閑居して不善を為す」という故事があるが、皆さんはそういう生活、何もない暮らしを楽しめそうか。人間の生きる基本は「衣食住」の三文字だが、「荒れ野」は、このすべてを欠いている状態の場所である。だから人間のありのままが露わにされる、極めて象徴的な場所なのである。

荒れ野(砂漠)を身近な世界として暮らす人々は、「砂漠は不思議な場所だ」と語ることがしばしばある。例えば、何の塩梅か、遥か遠くにいる人の話声が、すぐ耳元で聴こえて来たり、暴風の中に、何やらささやくような、時には喚き、呻くような声が、風に交じって聴こえたりする、というのである。日常と全くかけ離れた世界は、人間の通常の感覚とは別の、隠れた側面を表に引き釣り出すのであろうか。

マタイは悪魔のことを「試みる者」とも呼んでいる。いわば人間の最も弱い所、弱点を揺さぶる存在というのである。弱い所をゆすぶられると人は「本音」、隠しておきたい本当の心を露わにする。旧約で悪魔・サタンは、み使いのひとりとみなされて、神とのお目見えの栄に浴している。殊更に神に逆らって、積極的に悪だくみを企て、悪さをする、というのではない。人の弱みを見つけ、その弱点をゆさぶり、ことさら意識に上らせ、本音を吐かせて、心の底にある事柄を、神に告げ口をするという、どちらかと言えば「嫌な奴」であり、それで人がドジばたするのを面白がっている節があるから、やはり「悪い奴」である。

悪魔は荒れ野で、三つの事柄を主イエスに問いかける。3節「これらの石が、パンになるように命じたらどうだ」。パン、つまり食べ物についての問いであるが、生命に直結する切実な事柄、つまり「生存」の問題である。次の事柄は、6節「神の子なら飛び降りたらどうだ」。衆目を前に、あっと驚くような手腕を発揮して、評判を取ったらどうだ、というのである。これは「名誉」あるいは「人からの評価」の問題である。さらに8節「(この世の国々とその繁栄ぶりを見せて)これをみんな与えよう」という。これはこの世の「権力」や「お金」を手に入れる、あるいは人間関係で「力」を持つことを表している。

こうして読んでくると、「荒れ野の誘惑」物語、主イエスと悪魔の対話は、人間の隠された心理の、深い所にある本音を、表に露出する機能を持った文学であるともみなすことが出来よう。人間が最も気にすることは何か。まず「食べ物、パン」つまり己の「生存」のこと。そして「名誉やら人からの評価」、さらに「権力、お金、あるいは力関係」を持つこと、おおよそこの世で、人間はこの三つの事柄を巡って、あくせくし汲々として、何ほどかのものを手に入れつつ、何とか生きようとするのである。生きるためのセイフティネット、公的福祉を拒絶するのも、三つのしがらみがまとわりつくからである。自分のみじめさを人に知られたくない。自分自身もそれを目の当たりにしたくない、しかしそれでは生きていけない、この堂々巡りである。

そして荒れ野は、見事に、この三つが取り去られた場所なのである。だから人間の住めない場所、生きられない所なのである。そこで人は、はじめて、人間が何により頼んでいるか、何に繋がっているか、縋り付いているのか、そもそも何が本当に自分を支えてくれるものとなるのかを、問われることになる。皆さんは何に縋り付いて(依存)、生きているのだろうか。口先では誰の世話にもならない、誰も頼りにしない、とはいうものの、人は必ず何かに依存して生きざるを得ないのである。

沖縄で「依存症」の方々のケアに取り組むレジリエンスラボ代表を務める精神保健福祉士、上原拓未氏がこのように語っている。依存行為は、誰にも本音を語れず、弱みを見せられない中で見つけた、孤独な自分を助けてくれる唯一裏切らない逃げ場であり、救いであり、心のよりどころなのだ。たとえ客観的には愚かなことだとしても当事者はそれを松葉づえ代わりにして、ようやく歩いているのである。

依存症からの脱却は「やめ方を知る」だけでは十分ではない。さらに必要なのはうそと秘密で覆ってきた自分を「正直に打ち明けられる仲間」を作ることだ。心配事や不安、ストレスを依存行為で紛らわせるだけの生活をやめ、新しい生き方を模索する。この一生の課題に一人で取り組むのは荷が重すぎるからだ。

さらに「依存の反対は自立ではない。依存先を増やすことだ」といわれている。やめ方を知り、先に実践している依存症者たちは最も健康的な依存先であり、仲間である。家族も当事者も「このままでは生きていけない」と行き詰まり、現状を変えたいと願うならば、勇気をもって仲間の手をとってほしい。孤独に代わる「癒やしと共感」が、そこにはある。

「荒れ野」は悪魔や悪霊、あるいは野獣が跳梁跋扈する「異様な世界」である。しかし他方、そこは「神との出会いの場所、神の恵みの場所」なのである。「荒れ野」は神との出会いの場所、悪魔と共に、天使が仕える場所、つまり神が出会ったくださる場所である。そもそも「ヤーウェ」という神の名前は、荒れ野を吹く暴風の「ひゅるひゅる」いう音が元ではないかと言われている。他ならぬ荒れ野に、主イエスは身を置かれ、苦しまれた。悪魔からの試みを受けられた、即ち、人間の最も心の底にあるものを巡って、本当に私たちが手を伸ばすことが出来るもの、縋り付くことができるものを、表してくださった。この苦しむ主イエスに、私たちは繋がるのである。「必要なのはうそと秘密で覆ってきた自分を『正直に打ち明けられる仲間』を作ることだ」。私たちもその仲間のひとりとされている。