「わたしはひとりではない」ヨハネによる福音書16章25~33節

四月の終わりから五月の初旬にかけて、小学校の子どもたちには、少々厄介な学校行事がある。名付けて「家庭訪問」、担任の先生が家にまで押しかけて来て、学校の様子を親に告げ口するのである。ある家庭訪問で、こんなやり取りがあったそうだ。先生がお母さんに言う「お子さんは、いつも魚の絵ばかりを描いています、もう少し学校の勉強をするように言ってください、将来困ることになるでしょう」。すると母は言う「あの子は魚が好きで、絵を描くことが大好きなんです。だからそれでいいんです…。成績が優秀な子がいればそうでない子もいて、だからいいんじゃないですか。みんながみんないっしょだったら先生、ロボットになっちゃいますよ」。

長じて、テレビ番組でしばしば見かける、現在のその人となったサカナくんが、こう言う文章を書いている。「(人間のいじめは)さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると、残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。でも、仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話を聞いてあげたり、励ましたりできなかったけど、誰かが隣にいるだけで安心できたのかもしれません」。

「広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じ込めると、なぜかいじめがはじまるのです」。「海岸で一緒に糸をたれているだけで、云々」ここに、生き物の問題、人間の問題が凝縮されているのだろう。人間の居場所とは、魂が狭いところに閉じ込められるのではなくて、広々したところに解き放たれることであり、さらに隣に誰か共にいてくれることなのである。さかなクンの「今」がどうしてできているのか、その背景のひとこまを語るような出来事であろう。

今日の聖書個所は、ヨハネ福音書で13章から17章まで連綿として続く、いわゆる「主イエスの告別説教」あるいは「遺言」と呼ばれるものの、最後の部分である。この一連の語り「遺言」は「しかし、元気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」との力強いみ言葉で閉じられており、それを聞く私たちも実に勇気づけられる思いにさせられる。こういう遺言も滅多にないものだろう。しかし昔の仏教の僧たちは、信仰の先達の高僧が身罷る時、枕辺に集って、その最後の言葉にじっと聞き入ったという。生と死の境にある者の言葉は、何ほどかの悟りの境地、深い知恵を表すものだと信じられたからである。

主イエスの遺言の最後は、明るい言葉、「勝利」が告げられる。この世に対して、主は打ち勝っておられる、というのである。よく「打ち勝つ」という言葉が語られる。「自分に打ち勝つ」とか「人生に打ち勝つ」という具合に用いられるが、それではそもそも、主イエスの「勝利」とはどのようなものか。ヨハネは他の福音書と異なって、主イエスの十字架を、単に悲劇、悲惨という見地からは見ていないのである。確かに最も残虐な刑罰である十字架に付けられ、血を流し、人々から打ち捨てられ、そして神からも見放されたように見える死なのである。そのような終わりは、普通は、敗北、負け戦、討ち死にである。それが「勝利」であるとは、どういうことなのか。武力や経済力で相手を圧倒する、壊滅的な打撃を与える、あるいは技術や戦略によって他国や人々の優位に立ち、足下に打ち伏せるような、この世的な勝利ではないだろう。それを理解するための手掛かりは、直前の言葉にあるが、私たちはそのみ言葉を、どう受け止めるのであろうか。

32節「だが、あなた方が散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る」。主イエスを置き去りにして、皆、ちりじりばらばらに、家に帰ってしまう、というのである。この言葉には、主が十字架に付けられたその時の様子が、強く意識されている。その時、弟子たちはどうしたか。皆、主を見捨て、逃げてしまったという。一番弟子のペトロですらも、勇を奮い、ひそかにもぐりこんだ大祭司の庭で、「あなたもあの人の仲間だ」と問われて、主を否認したのである。そして福音書の末尾には、ペトロを始め漁師出身の者たちが、皆、故郷に戻り、ガリラヤ湖で漁をしている場面が伝えられる。おそば近くに居た誰も、最も身近に生きた者たちも、最後には、主イエスと共にいることはできなかった。さらにこの節には次の言葉も付け加えられていることに注意したい。「いや、既に来ている」。つまり「これから起こること」ではなく、「今、それが現実」となっている、誰かを「置き去りにする」、「置いてけぼりにする」ところが、私たちの生きる世界の常なる有様なのだというのである。

「赤の女王効果(仮説)」という理論がある。ルイス・キャロル著『鏡の国のアリス』に登場する赤の女王はアリスに言う。「いいこと、ここでは同じ場所にとどまるためには、全力で走り続けなければならないのよ」という台詞による。トレーニングジムのランニングマシンみたいな話で、その上に乗る者は、ただ延々と走り続けなければならない。そのように「赤の女王効果」とは、絶えず進化し続けていないと存続すらできない生物界の種の間の競争を説明しようとするひとつの喩え(仮説)である。例えば人間と感染症とのせめぎ合いもいわばその一つで、人が病原体を制する薬を作れば、すぐ耐性をもつ病原体が現れる。このいたちごっこがいわば生物界の宿命とも言えるだろう。ひたすらわき目も降らず走り続けるこの世界が、このみ言葉で。ありのままに主から示されているのである。この世は人を置き去りにする世界である。だから、容易く人間が、迷子の幼子のように、見捨てられ、放っておかれ、後に取り残されるのである。それが嫌ならさあ歩け、と追い立てられるのである。

これは私たちの信念や信仰の弱さを、努力の足りなさ、ふがいなさを責める言葉なのだろうか。無教会の聖書学者、塚本虎二氏は、31節をこう訳している。「イエスは(いとおしげに彼らを見やりながら)答えられた、『いま信ずるというのか』」。主イエスは私たちの「信」を喜んでくださり、受け入れて下さる。しかし同時に、私たちの人間の現実をよく知っておられるのである。「(いとおしげに彼らを見やりながら)」、確かに根性なしの私たちではあるが、そんな私たちをいとうしみ、拒絶されることはない。自分を捨てるであろう小さな者たちを、ありのままに受け止められる、と読むのである。皆さんはどう読むか。

こういう文章を読んだ。「能登半島地震で被害が広がった新潟市西区の拙宅周辺は街路や歩道に無数のひび割れが残る。そのわずかな割れ目では、濃淡さまざまな草花が伸び盛りである。オランダミミナグサは米粒ほどの白花を咲かせている。ツクシの茎というスギナも針のような青い芽を競って伸ばす。ヨモギ、タンポポ、ヨシ…。地震からまだ4カ月ほどなのに、アスファルトの隙間は雑多な草で春らんまんだ。あらためて雑草の生命力に驚く。農業や園芸では一番の嫌われ者だ。でも、みちくさ研究家を自称する植物学者の稲垣栄洋さんは著書『』「生き物の死にざま」などで『』「最も進化した植物」だと彼らのけなげでしたたかな延命の術をたたえる。共通するのは予測不能な逆境をチャンスに変える個性である。地をはうように生えるカタバミは人が摘み取ると、その刺激でパチパチと種子が散らばり衣服にくっつく。オオバコは靴や車輪に踏まれると、待ってましたとばかりに種を付着させる。どちらも別天地で子孫を残す作戦である」。震災の地面のひびわれに、生命は根付くのである。

ひとつの生命は、決してひとりだけで取り去られ、置き去りされることはない。主イエスは言われる「わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」。主イエスの勝利とは、自分が誰よりも勝る強さや大きさを誇るものでない。ただひとつ、共にいる方、父なる神がおられることだという。「学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話を聞いてあげたり、励ましたりできなかったけど、誰かが隣にいるだけで安心できた」、ほんとうの人生の勝利とは、いついかなる時も「安心できる」、ということだろう。主イエスは十字架の上で、ひとり血を流され、嘲られながら、父なる神に目を向けたのである。「安心」とは、どんな中にも向かう所がある、ということである。人は見捨てるだろう、しかし神は、その裏側におられて、み手を伸ばされるのである。33節「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、元気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」