「おびえ、震えている」ヘブライ人への手紙12章18~29節

こんなシルバー川柳がある。「味のある字と褒められた手の震え」、また「恋かなと思っていたら不整脈」。皆さんはどうか。体が震えることはあるか。寒くて震える、恐くて震える、緊張して震える、原因はさまざまだが、生命が何らかの理由で切迫し、危機に瀕する時に、「震え」が生じる。『俘虜記』『レイテ島戦記』等の著作で知られる作家、大岡昇平氏は、1988年に79歳で没するその直前「七十九翁は震えている」とその心中を語っている。その「震え」の理由は、チェルノブイリの原発事故に触れて、「次の原発事故は、日本かフランスだろうと言われている。・・・七十九翁はふるえている」と遺言のように記したのである。その「震え」は、決して杞憂の絵空事ではなく、やがて現実のものとなるのであるが。この言葉を聞くにつけ、作家自身が世界に相対する姿勢がどういうものであったのか、如実に知れるのではないか。この世界に起きている出来事に「おびえ、震える」という心と身体の感覚を通して、それが作品に胚胎し結実されたのであると。「おびえ、震え」はこの作家の鋭い感性の現われであるが、私たちはどうであろう。今、世界で起こっていること、ウクライナ、ガザ、ミャンマー、そしてこの国で起こっていることに、心と身体がどう反応しているだろうか。

昨年5月(2023年)にウクライナで出版された『戦争語彙集』が大きな話題となっている 。10か国語での翻訳が決まるなど、異例の早さでこの書物の内容が世界に広がっているという。ウクライナの詩人オスタップ・スリヴィンスキー氏やその仲間が、市井の人たちから聞きとった「ストーリー」をエッセイ風な短編にまとめたものである。物語のタイトルには「風呂」「星」「林檎」「夢」などすべて日常のことばが並び、それにまつわる体験を通して、戦争に直面したことで身近な“ことばの意味”が変わっていく様子が記されている。戦争は日常生活のあり方を変えるが、当たり前に使っているいつもの言葉、戦争とは関係ないような何気ない言葉の意味すらもひっくり返す、というのである。

「バスタブ」(マリーナ/ハルキウ在住)「近所にシェルターがないからバスタブを頼りにするしかなかったんですね。アパート一戸を丸ごとバスタブの大きさに縮めるなんて思いも寄らないことでした。ミサイルが数軒先、そして二軒先のところまで飛び交いはじめた時からもうダメだなと思っていて、アパートの片付けも拭き掃除もほどほどにして、というよりかやっても仕方がないと諦めていました。その時私はバスタブに向かって言いました。『どうかよろしく。助けてください!』と。そういう具合に言ったのです。一発がとうとう家のバックヤードに着弾した時、わたしは入浴中。窓という窓は枠ごと割れてしまい、台所も寝室もガラスだらけになりました。床も、ガラスの破片と枠の残骸に覆われてしまいました。唯一私が切り抜けて生きていけそうな場所は、『バスタブ』(だけでした)」。

普通「バスタブ、ふろおけ」という言葉を聞くなら、何を思うか。「暖か、ゆったり、くつろぎ、さっぱり」等々だろう。ところが、戦争はそれを「どうか、助けてください!」に変えたのである。「おびえと震え」の中でどこに逃げたらよいのか、どこに行くべきか、生命の危機から自分を守ってくれるように。狭いバスタブの中で身を小さくし、「おびえ震える」というのである。

今日の聖書個所は、ヘブライ人への手紙12章に目を向ける。この書物は。一応の手紙の体裁は取られているが、どちらかと言えば「神学論文」あるいは、文字にされた「説教」(礼拝で読み上げられることを願っての)の類である。この書物が記された意図については、この章の3節の言葉に、幾分か背後の事情が汲み取れるであろう。「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように」「力を落としてしまい、その魂が弱り果ててしまわないように」。「気力が失われ、疲れ果てて」いる時には、何か積極的に行動しよう、動こうという気持ちになれない。さらに今起きている物事を悪い風に、殊更、悪い方向に考えてしまうものだ。「今が最悪」ならもうこれ以上悪くなることはない、これからは「良くなる」と思えればいいのだが、底なし沼に落ち込んだみたいに、底に足がつく気がしないで、沈むばかりの気持ちになる。さらにもがけばもがくほど、深みにはまるように思える。

最近の言葉に「沼る」という言い方がある。「何かにどっぷりハマって、いつの間にか夢中になっていること」を指す用語だそうだ。「沼」は、池や湖よりも水深が浅く、泥が溜まっていて、透明度が低い場所なので、このような場所に足を踏み込むと、足が動かずに身動きが取れなくなってしまうイメージがあるように、沼にハマって抜け出せなくなった状態のことで、周りが見えないほど夢中になることを表現した言葉であるという。

18節に「信じる」ことにおいて、「気力が失われ、疲れ果て」ている中で、何が起きるのかを示している言葉がある。「あなたがたは手で触れることができるもの(しるし、奇跡)や、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞いた人々がこれ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません」。

この世の中には、人間の傷ついた心に、さらに塩をもみ込むような、荒々しい言葉に満ちている。「愛と信頼」が語られても、それを軽蔑し、踏みにじろうとする空しい言説に満ちている。それを一国の指導者が率先して行うのである。他に負けない強さと強靭さだけが褒めたたえられるべきもので、他からの優越性だけが人間の価値であるかのように、人々を鼓舞し、そのようにふるまうようにけしかけるのである。

私たちもまた留意する必要があるだろう。「しるしや、奇跡、燃える火、黒雲、暗闇、暴風、ラッパの音、更に、聞きたくないような激しい言葉の声」が、上から押さえつけるように、叱責のように語られ、ただ裁きと滅びが一方的に宣告されるように語られる。それが今の危機を乗り越えて行く道なのだ、とでもいうように、である。どうも、書簡が送られた教会の人々のこころは、このような真剣で真面目だが、沼に陥ってもがいているような状態であったらしい。「あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように」「力を落としてしまい、その魂が弱り果ててしまわないように」するためには、どうしたらよいか。我とわが身を鞭打って、弱く怠惰な心を、奮い立たせるというのであろうか。

「これ以上語ってもらいたくないと願ったような言葉の声に、近づいたのではありません」、このみ言葉は、私たちの心そのままである。かの出エジプトを率いた猛者モーセでさえも「わたしはおびえ、震えている」と弱音を、本音を吐いた、という。21節「また、その様子があまりにも恐ろしいものだったので、モーセすら、『わたしはおびえ、震えている』と言ったほどです」。

先に紹介した『戦争語彙集』の「バスタブ」の物語には、続きがある。バスタブは本来、戦争から身を守るシェルターなどではない。本来の用途がまったく捻じ曲げられて、ほんとうの価値を踏みつけにされるものが、まさに「戦争」である。その第一は、生命を殺すことが意味となり価値となり、その重さが羽毛よりも軽くなるという事実である。ところがそのバスタブを巡って、こうしたことが起きる。「それに何と翌日、お湯が出ました。なぜか分からないけれど、何かのご褒美のように覚えました。灯りもなくたって蛇口を捻れば流れてくるお湯!バスタブにたっぷりのお湯を溜め、キャンドルを何本か灯しました。探すとアロマオイルも出てきます。まるで『千夜一夜物語』のヒロイン、シェヘラザードの気分。夜の数は、しかしもう気にすることはなくなりましたけれど」。

「バスタブ」が「バスタブ」としての、本来の働きと役割を、激しい破壊のさ中に、なぜか不思議に取り戻す、という出来事が起こったというのである。28節「わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」。主イエスは、私たちのこの世界、決して天国ではない、ありのままのこの世界に来られたのである。そして神の国は、私たちのところから決して遠くない、ことを語られた。戦争があり、災害に悩み、神からの賜物である生命が軽んじられ、人間と人間が不信の中で駆け引きをし、自分の利益ばかりを追い求めるこの世界を、実に神のみ子が歩まれ、見捨てず、十字架を背負って歩まれて行ったのである。そして悲惨の中にも、揺り動かされない御国が、主イエスと共にあることを、現わされたのである。

会堂が完成し、そこで礼拝が守られ、人々が集められ、鶴川北教会が形作られて半世紀を経ようとしている。教会が立つこの世界は、その時も、今も「人間が愛や信頼を語っても、空しいというしかない(牧野信次牧師)」ような場所なのである。この数年の間、私たちは「外には戦い、内には怖れ」とパウロが看破した如く、内に籠り、ひたすら見えない敵を恐れ、息をひそめて暮らして来た、外の世界では、至るところに戦争や災害によるうめきが満ちている。ではそこで何が起きて来たのか。「わたしはおびえ、震えている」という小さくされた心である。しかしそこにお出でになり、み言葉を告げ、神の国へと招かれている主イエスがおられる。次週は、「創立48周年記念礼拝」を守る。その歩みを振り返って、確かに主がおられることを、新たに心に刻みたい。