はしかを患いふさぎ込む2歳の息子を元気づけようと、父親が即興で話を考えて、語り聞かせをする。どんな話か、人間のように感情を持った小さな機関車の物語。少年の頃、家の近くを走る鉄道を眺めて育ち、そこから想像したストーリーだったという。それを書き留めた絵本は、最初、鉄道の発祥地のイギリスで、後には日本でも「きかんしゃトーマス」として人気となる。牧師だった作者のウィルバート・オードリー氏は、子どもたちに「誠実に生きる」、「共に生きる」といった道徳的な価値観を伝えるとともに、古き良き鉄道を後世に残すことを使命としていたそうだ。作者はやはり「鉄オタ」だったということである。
「きかんしゃトーマス」は、生意気だが気のいい小さなタンク機関車である。負けず嫌いで、任されたことは責任もってやり遂げようとするが、勢い余って自分の手に余ることにも手を伸ばして、立ち往生することもしばしばである。他方、仲間思いで、他者の困窮を黙って見ていられないおせっかいな性格でもある。そういうキャラクターも、この物語が愛される所以であろう。
スコットランド在住の、とある知人の息子さんは、「トーマス」という名前であるが、エジソン、ジェファーソン、アクィナス等、世界の有名人でこの名を持つ人物は多い。やはりこの名に親しみや共感を覚えるからこそ、命名されることに、間違いはないであろう。そしてこの人物は、聖書の登場人物のひとり、さらに言えば主イエスの12弟子のひとりに遡るのである。トマスは主イエスによって、マタイと共に弟子の召命を受けた人だが、その素性や背景については、よく知られていない。
「トマス」という名前自体は、ヘブライ語の語根の「タ・アム」(ta’am)に由来する。「タ・アム」はひとつに「正直者」という意味を持つとされ、さらに「双子」をも意味している。実際、ヨハネによる福音書では、しばしばトマスは、「ディディモ」というあだ名で呼ばれている(11章16節、20章24節、21章2節)。「ディディモ」はギリシア語でまさに「双子」を意味しているが、この呼び名のいわれは明らかではない。
トマスという人物の人柄について、ヨハネ福音書は次のように記している。主イエスが、愛するラザロの死を告げられた時、彼を復活させるためにベタニアに行こうと決意された。しかしベタニアは、エルサレム近郊にあり、そこ近づくことは、既に要注意人物としてユダヤ当局に目を付けられていたイエス一行にとっては、生命の危険をはらむ行為でもあった。このとき、トマスは仲間の弟子たちにこう言い放ったという「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」。こういう言動を前にすると、正直というか直情的というか、つくづく「名は体を表す」と感じさせられる。
今日の聖書個所は、福音書中にトマスが登場する場面では、最もよく知られたシーンである。一説にトマスは、12弟子の中で「食事係」であったという。主イエスが十字架で息絶えられた後、弟子たちはユダヤ人を恐れて、一つ家に籠って、部屋に鍵を固くかけて息をひそめていたという。その部屋は「最後の晩餐」を共にした場所であったとも言われる。その鍵を固くかけたはずの部屋の真ん中に、復活の主イエスが現われ、弟子たちに出会われ、声を掛けられたのである。丁度その時、生憎なことに、トマスは皆で食べる食料を買出しに出かけていた、という。部屋に戻ってから、他の弟子たちが復活の主にお会いして、喜び、さんざめいているのを見て、余程悔しかったのだろう。こう見えを張る「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」ここから“Doughting Thomas”(疑いのトマス)という呼び名が生まれたのである。但し、この「疑いのトマス」という弟子の名前を取って命名された無数の人たちのことを思うと、単にトマスという人物を「反面教師」として語ろう、としている訳ではないだろうと思われる。
「手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ」という方法は、「実証主義」的な認識のために、現代では欠くべからざる姿勢であると言えるだろう。「フェイク」が交錯し、「エビデンス」が声高に、求められる時代である。何が真実で、何が偽りであるのかを、胡散臭いままにしてそのまま受け入れることはできないだろう。トマスは、主イエスがどのような方であるかを示すしるしは、何よりもその傷である考えるのである。十字架に付けられた時に負われた傷こそが、主イエスのエビデンスだと主張する。この傷によって、イエスがどれほどわたしたちを愛してくださったかが現されているからである。私たちもまた、主イエスを、その顔によってではなく、傷によって知るのだという信仰理解につながるものであろう。即ち、何ら悩みも痛みもなく、この世の苦しみを超越して、遥か高みに輝きにあふれ、神々しくまします方を私たちは信じるのではない。十字架で痛み、血を流し、苦しまれる主の姿に、私たちはまことの神の姿を見るのである。
「ディディモ(双子)」というあだ名の謂れについて、いくつかの興味深い考察がある。ひとつはこの弟子が、主イエスとよく似た外見をしていたから、というのである。もしかしたら、他の弟子の前で、巧みに主の身振り手ぶりをまねて、物まねを演じて見せて、一同の喝さいを受けることがあったのだろうか。古代の文化において、すでに「演劇」は十分に発達していたから、初代教会もまた、ごく自然に「演劇」的要素を受け入れていたのではないか。つまり宣教の際に、主イエスの姿を演じる「役者」のような働きをする者、「ディディモ」もいたのではないか。
もうひとつの理解は、「双子」の片割れは、「私たち自身」である、というものである。トマスのように、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ」という心なしには、つまりトマスの心なくしては、主イエスに出会うことはできない、トマスこそ、私たちの兄だというのである。「見ないで信じる者は幸い」と主は言われる。今、直に復活の主イエスを見ることはできない。しかし私たちは、見えないお身体を、その身体に記された傷を、釘の跡を確かに見て、主イエスの現在を了解し、み言葉を信じるのである。