「猫の手、大募集中」、とある宅配運送会社の営業所に掲げられていた掲示である。この会社は「黒猫」のマークでおなじみなのだが。「猫の手も借りたい」という諺は、その出典をたどれば、近松門左衛門作の浄瑠璃『関八州繋馬』(享保9年1月15日初演)で初出とされる、「是こんな人出來るぞや〳〵、上から下までお目出度と、猫の手もかりたい忙しさ」。結構、由緒正しい歴史を持つ言い回しだと感心させられる。この頃からというより、古代から猫は全く変わっていない。変わらないものがあるとは、「めでたくもあり、めでたくもなし」ということか。
確かに、猫は手を実に器用に使う。顔を洗ったり、ものをつかんだり、ひっかけたりもてあそんだり、パンチを繰り出したり、いろいろ手技を駆使する。ところがあの生き物は、まったく人間のお役に立とうとは思っていないようである。こちらがどれほど忙しくしていても、「知らぬ存ぜぬ」とこたつで丸くなって寝ているし、パソコンで仕事をしていると、キーボードの上に乗って来て寝そべり、手助けをするどころか却って邪魔をする。そんなやる気のない(あくまでも人間の側から見てではあるが)猫の小さな手でも借りたいほどの忙しさ、これは本当は喜ぶべきことではないのか。
この国で、連日のように「人手不足」が叫ばれている。少子高齢化社会の宿命であろうが、人材獲得戦略の必要がさまざまに訴えられている。しかしすべての産業分野での不足ではなく、非常に偏りがあることが問題とされている。「エッセンシャルワーカー」という呼称が端的に示すように、要は生命や健康、日常生活に直結する分野の仕事に、恒常的に大きな不足が生じている、ということである。どれほど労働が機械化、IT化されたとしても、こと生命に関わる事柄は、結局、人間同士の繋がりという要素はなくならないので、今はどうにかやり過ごしても、いつか自分の事柄として向き合わざるを得なくなるだろう。「働く」とは、俗に「端楽(はたらく)」という意味合いであるとよく口にされるように、やはり自分自身の仕事のことだけではなく、関係性の拡がりをもっていると思わされる。
今日の聖書個所、1節に「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」と記されるが、宣教のための弟子派遣の様子が描かれる場面である。この記述だけからでも、福音書の著者ルカの、営業推進活動への慧眼が反映されていると思う。マーケティング拡大にあたって、まず先にいくばくかの社員を派遣し、状況を見聞させ情報収集に努める、これは商売の常道である。そしてルカは、12弟子ではなく72人を任命、派遣されたという。これも12の6倍なので象徴的な数字なのだが、イスラエル12部族をしのぐ真の完全なイスラエルという意味合いと共に、やはり実質12人では心もとないというか余りに貧相であるという思惑も働いているのであろう。そもそも主イエスの宣教を受け継いだ弟子たちは、12人ばかりでなく、名も記されない無名の男から女まで無数の人が、宣教に携わったのである。暗にそういう事実を示唆しているのであろう。やはりルカは異邦人のためにこの福音書を記しているし、福音書の続編、使徒言行録は、はるか北地中海世界への宣教の道筋を語る著作である。その暗示をここで記しているということであろう。
「先に遣わされる」というように、実際、主に代わって、名代として宣教の主体となるなど、思い上がりもいいところである。しかし信仰者たちは、復活の主イエスから宣教への委託を受けたのであり、その後、主は昇天され姿が見えなくなった。そのようにして、初代教会の宣教活動が展開されるようになる。その時、最初のキリスト者たちは、大きな恐れや不安、自分たちの力の足りなさを思ったに違いない。
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。主イエスの語られた譬に「ぶどう園の労働者」の話がある。ぶどうの収穫期、労働者不足で人手が足らず、農園主が誰でも、やって来た人々皆を雇ってぶどう園に送った、という話である。ここまで気前のいい経営者がいたとは想像できないにしても、古代でもこうした収穫の繁忙期には、人手不足が生じていたということだろう。ぶどうが実り、完熟すれば、ぐずぐずはしていられない、摘み取らなければ腐るし、鳥たちがついばんでしまう、一刻の猶予はならない、「猫の手も借りたい」と相成る。
「収穫は多い」、農耕に従事する者の一番の報いは、これである。それは単に収入や生存がそれによって担保されるから、だけだけではない。自分が額に汗して労したことに、手ごたえが感じられるときに、人は何より喜びを感じるものである。「収穫」は単に取れたものの量の大小軽重を指すのではなく、「手のわざが空しくならなかった」、との実感である。
こと「宣教」における「収獲」とは何かが議論されねばならないことは言うまでもない。教勢の進展、信者数の増加だけを目指すなら、いきおい働き人の意気は消沈するであろう。「方便」と開き直っていろいろ手をつくしてやってみても、思い通りの結果が得られるわけではない。ややもすると「カルト化」の誘惑に陥る。ここで主イエスは「収穫の主」という言い方をされていることに注目したい。普通それは、人間の手の働き、努力によってもたらされると思ってしまう。ところが「収穫」は本来自然の恵みであり、ひいては神の賜物のことである。「播かれた種は人が寝起きしている内に育ってゆくが、その人はどうしてそうなるのかを知らない」と言われる通りである。「収穫」はすべて神のものであるし、人はその分け前にあずかるのみである。ここに目を据えると、神の見えざる御手の働きのあらわれは、「喜び」そのものであることが知れる。この喜びを味わうことなしに、働き人は働けないのであある。つまり「働き人が少ない」とは、神のなされる収獲の「喜び」を知っているか、分かち合っているか、という問いかけの言葉でもあるだろう。
現代のこの国の「人手不足」は、この「収穫は多い」を実感できないことにあるだろう。もちろん低賃金、物価高騰、労働のブラックさに起因するものだが、既述のように「収穫」をものだけで判断できないことに、最大の理由があるのではないか。すると一番の問題は、「人生の収穫とは何か」、と問うことであろうし、その「収穫」のあり方、手に入れる方法、何よりそれを喜ぶあり方を、再考する必要がある、ということであろう。時の首相は「今日より明日が良くなる、自己実現できる社会」として「楽しい日本」を提唱したが、「収穫」を真に喜び楽しむ術こそを、深く洞察すべきであろう。