祈祷会・聖書の学び ルカによる福音書16章1~18節

最近、「三だけ主義」なる価値観が幅を利かせているという。曰く「今だけ、金だけ、自分だけ」、鈴木宣弘氏の著書『食の戦争米国の罠に落ちる日本』の冒頭に記されている。「今だけ」、即ち、先の事を全く考えず、目先のことだけしか見ない刹那的な思考で、「金だけ」、世の中の全てを金銭面・経済面だけで判断して、利益にならないものを蔑ろにし、「自分だけ」、文字通り、自分だけが大事で、他人への思いやりがまったく欠如しているという、現代人の生き方や生き様を切り取っている標語である。こうした風潮は、つい最近になって、突然生じたものではなく、強欲な資本主義社会の進展と歩を一にして培われて来た結果であるから、さほど珍しい物言いではないだろう。但し、ポスト・コロナの時代に、今まで以上に、露骨にあからさまに口にされ、実行されるようになってきた、それも一国の元首や政財界のリーダーによって、ことが今日の時代の潮流なのである。「不寛容」で「狭量」で「内向き」な時代の到来である。

今日の聖書の個所は、主イエスの譬話のひとつで、この福音書にしか登場しない「ルカの特殊資料」と呼ばれる一節である。この譬をめぐって、これまで多くの解釈者たちの頭を悩ませ、議論がなされて来た曰く付きの個所とも言えるだろう。難解な話である、が、それはストーリーや台詞が難しいのではない、逆に極めて分かりやすい、ところがここで論じられている事柄が、私たちを悩ませるのである。それは、いわゆる道理に合わない、腑に落ちない、あるいは道徳的に了解できない、という違和感にどう対するか、という問題なのだと言えるだろう。だからと言って、これは主イエスの実際の言辞からかけ離れた、後の時代の創作やら改変であると短絡的に判断することもできない。確かに主イエスの言葉の断片がモザイクのように組み合わされて、現在のパラグラフが構成されている、と見ることはできるが、少なくとも8節までは、元々の譬の原型をほぼそのまま伝承しており、この譬の主張の真意を測りかね当惑した福音書記者、ルカの解釈コメント(それらも主イエスの言葉の連結というスタイルで)があれこれと連ねられているという編集史的な考察を加えることができるだろう。

話は簡単である。この時代の金持ち、資本家は、ほとんど皆、不在地主である。自分が所有する広大な耕地や栽培地には居住せず、エルサレムやローマなどの都会に暮らし、自分の土地からの上りだけを手にして、資産の運用を行い、財産を増やしている。現地のことはすべて使用人に任せているから、ごく細かいところにまで目が届くわけではないが、毎年、相応の収益や利益が生じれば、それでよしとする塩梅である。だから雇人の身分や立場にもよるが、執事のような家業の采配や管理を任せられる位置にあれば、主人の目がないのを良いことに、中抜きや上前をはねることも、容易く行うことができる。主イエスの他の譬にも、あまり質の良くない管理人が登場するから、今日の譬の管理人の「不正」もそういう類の、よくある話のひとつだったのだろう。1節「この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった」。今も昔も変わらない、「告げ口」する輩が現れ、主人に「告げ口」をしたのである。現代、ネットやサイトで「正義マン」と揶揄される発信者が数多くいることが指摘される。大真面目に怒りに燃えて、天に代わってわって不義を打つが如く、罵詈雑言、罵倒を繰り返す人々である。「告げ口」という訳語があてられているように、ひどい抑圧や不当な人権蹂躙、使い込み、裏金に対しての義憤、公憤からの告発ではなく、どこの世界にもよくある足の引っ張り合いの一環、ということであろう。

2節「そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』」、主人の反応も、さもありなん、である。すると管理人の打った手は。3節「管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』」。そこで負債を持つ者を呼び出して、証文を書き換えさせて恩義を被せて、馘首された時のための有効な手を打った、というのである。

現代人なら、そんな見え透いた優遇策を与えられたところで、狡いこいつを信頼し「家に迎える」即ち「生活の世話」などという処遇をするかと思いたくもなるが、古代はやはり恩義で人間関係は密に構築されているから、あながち冷たく不義理はできない。負債者もまた債権者から申し出ての優遇であるから、断る道理はないし、そもそも泣く泣く高利で借りている訳で、安いに越したことはない。もし次の年も不作ならば、自己破産し嗣業の土地も手放さざるを得ないかもしれない、そんなこんなの不条理の借金なのである。

ところがこの顛末を知った主人はどうしたが、「この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」というのである。もちろん管理人は馘首されるだろう、しかし「賢いディールをほめた」。この管理人の不正など、主人の身上を傾かせるほどのものではなく、雀の涙ほどの損失であろう。そんな判断も働いているのか、それでも自分に損をさせた者を「誉める」ことができるのは、大人(たいじん)の面目躍如であろう。

さて肝心の「譬話」はここまでである。この後、ルカは譬話がよほど不可解だったのか、ああでもあないこうでもないと、ここそこの主の言葉(おそらく「執筆時には「主イエスの語録集」のような資料も存在していた節がある)をコピペして、自らの解釈を展開しようとした、ということであろう(上手く行ったかどうかはともかくとして)。

ひとつの読み方として、この譬に登場する人物に、もっとも親近感を覚える者に自分を託して読んで見るというやり方があろう。あなたが自分に近しいと思うのは、誰か、不正な管理人か、または主人か、あるいは負債を減免してもらった者たちのひとりか、それとも「告げ口」した者か。それによって鏡を映すように、自分自身の姿が現れて見えてくるであろう。理不尽だ、不可解だ、ずるい、というだけではない、痛快さも見えて来るのではないか。主イエスの譬はすべて「神の国」を指し示すものであるという。私たちの正義感、良心、道徳観等、価値観のすべてもまた、「わたし」の枠内に収まるものでしかない。そういう私の「壁」や「枠」を打ちやる痛快さを味わうことができたら、めっけものである。「幸いなるかな、壁を打ち破られるものたち、神の国は痛快なものである」。