祈祷会・聖書の学び ルカによる福音書19章28~40節

母親の実家は「農家」であった。里帰りする母親に連れられて、何度も訪問する機会があったが、多くの家畜が飼われていたことが、最も印象的であった。その一番は、黒い大きな目をしたこれまた真っ黒の和牛だが、その巨体には近寄りがたい雰囲気があって、その家の者が当たり前のように飼い葉や敷き藁を与え、その身体をわらで擦っている姿には、驚きであった。当然だが、家畜もまた大切な家族のひとりなのである。他方、おとなしい「やぎ」は、子どもでも怖いことなく、なでたりエサをやったり、時には乳を搾ったり、「仲間」のひとりという感じであった。但し、その乳は青臭くて子どもの口には、いささか強烈な味であった。その他、犬や猫や鶏が飼われていたが、「当たり前にそこにいる」、というような風情であった。

聖書の民、イスラエルの人々にとって、羊や山羊以外の家畜と言えば、もっとも一般的な動物は、ロバだろう。小さな体だが、粘り強い性格で、粗食に耐え、重い荷を担いで、荒れ野や山道をものともせず、長い距離を歩くことができる。他方、馬は民間の乗り物、家畜ではない。列王記上の記録によれば、ソロモンは厩舎(うまや)を「四万」所有していたと伝えており、(尤も歴代誌の記録では、「厩舎四千」)、かなりの規模の馬が飼われていたと推測できるだろう。

イスラエルの馬は、他の国々と同様に、中央アジア辺りからわざわざ輸入され、「軍事用」に特別に飼育されていた動物である。体格、足の速さ、力、迫力はロバと比べるべきもなく強大である。そしてロバとは比較にならない程、高価な家畜である。ソロモンは、軍事力の充実のために沢山の馬を飼育したが、そればかりでなく自国の軍隊の見栄えをも考慮したのであろう。それだけ軍馬を飼育するのは、多大な財力が必要であり、維持や運営にも莫大な費用が掛かり、自分の権勢をも誇示できるからである。これは現代の軍事力についても、同様である。

しかし、軍事用の家畜とはいえ、メソポタミアやエジプトの平地における対戦のためには、軍馬を用いた騎兵や戦車の威力は、そのスピードや重装備の点で、極めて有効に働く。しかしエルサレム周辺の地域、つまりユダの地域は、高地であり起伏に富んだ地勢をしている。するとひづめに蹄鉄を打ち込んだ軍馬では、踏破性に乏しく、体力の優位性を発揮できない。ダビデの郎党が戦いに卓越した技能を持っていたのは、起伏に富み、悪路や洞窟の多いユダの地勢を熟知していた上、神出鬼没なゲリラ戦に長じていたからである。パレスチナ高地での戦闘は、メソポタミアやエジプトの平地での戦いとは、まるで質が違う。だから日常生活においては、馬は無用の長物と言えなくもないであろう、そしてイスラエルの人々は、自分たちの日常の生き方を顧みて、ロバ的なあり方に親近感を抱いていたのではないだろうか。

さて今日の個所は、主イエスのエルサレム入城の場面である。古の預言者は、来るべきメシア(救い主)をこのように預言者した。「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ 歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地の果てにまで及ぶ」(ゼカリヤ書9章9~10節)。

「馬は王の乗り物」であり、「ロバは民衆の乗り物」である。颯爽と馬にまたがる姿は、王たる者の威厳を、否が応でも高めるであろう。ところがこの預言者は、イスラエルのメシアは、「馬ではなくロバに乗る」と告げる。それは、神がすべての戦車と軍馬を絶ち、戦弓を折り、すべての民に「平和」を告げられるからである、という。その象徴こそが、「ロバに乗るメシア」である。この預言者のヴィジョンは、聖書の歴史を生きて来た人々にとって、自らの経験に裏打ちされた、「祈り」から生まれてきたものであったろう。それ程、イスラエルの人々は、戦争に脅かされ、戦いに明け暮れる歴史を味わって来たのである。王が馬ではなく、ロバに乗る日こそ、私たちにとって、最も望むべき平和の成就なのだと。

この預言は、聖書の人々にとって、強く心に刻まれたことだろう。主イエスもまた、この預言の言葉を、よく知っておられた。但し、主イエスは、エルサレムの城内に入ろうとする時に、この古の預言者の言葉をただ踏襲したという訳ではないだろう。そのようにふるまわれた背景には、エルサレムの現実が色濃く滲んでいたのだろう。まことの神の神殿があるその都は、荘厳で麗しく装われ、日々犠牲がささげられ、祈りが絶えることはない。ところがそこは、堅固な城壁に囲まれており、ローマの兵隊とユダヤの神殿警備兵が絶えずにらみを利かせ、厳しく監視されて、治安に注意が払われていたのである。すべての民が、神に賛美と感謝をささげ、神の平安を祈念する場所が、もっとも平和とは裏腹な軍事力、すなわち暴力の最たるものによって保たれている、という皮肉である。

そういうエルサレムの現実を、主はよくご存じであった。しかし主イエスは、そのように暴力によって保たれる平和は、たやすく暴力によって損なわれることを、見抜いておられたのだろう。軍事力による抑止がどれだけもろいものかは、主イエスの時代でも、明らかだったのである。古の預言者もそれを見抜いていたから、「ロバに乗るメシア」を告知した。「神の国」は、ローマ帝国のような方法でこの地上にもたらされる、誰が本気でそんなことを信じるのだろうか。しかし現代でもこの錯誤と欺瞞は続いている。

入城にあたり、主イエスは弟子にロバの調達を依頼する。見ず知らずのガリラヤ人たちに、気前よくロバを提供する飼い主がいたことについて、かつてから疑義が挟まれている。一般人にとって、ロバは有用な家畜であり財産でもあるから、貸借に対し悶着が生じることを弟子たちは恐れたのだろう、「なぜ(ロバの綱を)ほどくのか」と問われたら、何と答えましょう、と尋ねている。これに「主(メシア)がお入り用なのです」と言いなさいと教えている。このやり取りから、皆さんは、何を読み取るだろうか。平和がもたらされるためには、何が必要か、ロバの持ち主は分かっていたのではないか。「馬」ではなく「ロバ」が、「神の都」と呼ばれる街にはふさわしい、こうした目と心を持った人が必ずいる、ということが、希望の縁ではないのか。