こんな質問項目がある。自分に良くあてはまるようだったら〇を付ける。「登場人物が身体的に痛い思いをするドタバタ・コメディを見るのが好き」。「ものすごく間が悪い状況の話を見聞きするのは楽しい」。「歩いている人が、閉まっている透明なガラスドアにぶつかるのは愉快だ」。「他の人が低い成績をつけられるとうれしい」。「他の人の失敗に喜びを感じる」。答えるのが嫌になる質問ばかり、12個ほど連ねられている。これは何のテストか。
最近「シャーデン・フロイデ」というドイツ語を耳にすることがある。この度合いを測る質問だという。「損害」「害」「不幸」などを意味する “Schaden” と「喜び」を意味する “Freude” を合成した用語で、他者が不幸、悲しみ、苦しみ、失敗に見舞われたと見聞きした時に生じる、喜び、嬉しさといった快い感情のことだという。強さ弱さの度合いはあるにせよ、これはおそらく例外なく誰にも生じる感情であり、脳科学者は、共に生きるというやり方で生存してきた人類の生物学的営みに深く関わる機能のひとつ、と分析している。即ち「出る杭は打たれる」的な感覚と繋がっており、集団の秩序維持、規範意識に作用している意識で、あながちそれはネガティブな感情だと否定して、持たないようにしましょうで済ますことはできないらしい。
現代の問題は、これがネットの世界で大きく肥大し、いわゆる「ネットいじめ」となって誰かを誹謗中傷するという形として現れ、より過激化していることである。相手が直接見えない上に、反撃されることもないので、どんなひどい言葉でも言うことができる。そして発信者は、自分は安全な場所にいながら対象者にそのようなひどい言葉を投げかけることで優越感を得、自らのストレスのはけ口にする。これはまるで自分は安全な物陰に隠れてピストルで相手を攻撃するようなものだ。攻撃した側に大きな悪意はなくても、やられた側にはそれらのひどい言葉や中傷が、心に深く突き刺さり傷を与える。
今日の聖書個所「ベルゼブル問答」と題されているが、主イエスの癒し、病人から悪霊を追い出す働きを見て、あまりに主イエスの働きや振る舞いが大胆、見事で、悪霊どもが唯々諾々とその命令に従うので、ファリサイ派の人々が妬んで難癖をつけた、という話である。この時代は、人間関係はすべてパトロン(庇護者)とクライアント(従属者)、つまり親分と子分という主従関係から成り立っていた。農民、大工、商人、物乞い、その他もろもろの業界が親分子分の関係で動いていたのである。ひとり勝手なことはできない。だから神様もまたそのようであり、悪霊にも「ベルゼブル」つまり悪霊の頭があり、若頭どもや、下っ端の構成員がいる、と信じられたのである。そして子分は親分から絶対の服従を求められる。主イエスの発する言葉に、悪霊が素直に従い、大人しく言われることをよく聞くので、「奴は悪霊の親玉ではないのか」とやっかみで言いがかりをつけたということである。彼らにはおおらかさがない。
ここにも初代教会の実際の有様が、暗にほのめかされている。この時代、ヘレニズム世界ではたくさんの神々が祀られており、住民は神々の縁日には、怠りなく犠牲を奉げ、供物を欠かさなかった。なぜか、神々の祟りを恐れたからである。他方、教会に集う人々は、神々への供犠や祀りにほとんど頓着しなかった。「私たちの主は、悪霊なぞ恐れなかった」、とキリスト者に大きな安心感を与えていたのである。
ところが「悪霊」の問題よりも、もっと厄介な問題に教会は悩んでいたのである。それは人間が群れる所では、必ず起こる事象である。今日の個所に、同じ用語、同じ意味の言葉が何度も繰り返される。どんな言葉か。それは「内輪で争う」「内輪もめ」という言葉である。つまり教会に「内輪もめ」がある、というのである。本当か、パウロの記したコリントの信徒への手紙を読めば、一目瞭然である。教会の人々が派閥を作り、「わたしはパウロに、いやアポロに、いやケファに、キリストにつく」と言い合っている。さらに「主の晩餐」も共に分かち合えない程に分断がひどくなっていることが伝えられている。残念なことにマタイの教会もまた、「内輪もめ」が起こっていたらしいのである。
マタイが福音書を記した時代、ローマ帝国内部での一番、頭の痛い問題がこれであった。「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」が達成され、もはや外には戦うべき相手はいなくなった。しかるに一番の敵は、内部に蠢いているのである。ローマ皇帝が最も警戒するのは、自らの生命をねらう暗殺者の存在である。それは他人ではない、日常のごく身近に接する側近や、そればかりか家族なのである。だから皇帝はしばしば保身のために、自分の家族の者をも葬り去ったのである。
どうして人間は内輪もめするのか。この国の昔々の偉い方は、「和をもって尊しとなす」と教えたが、それを「憲法」という形にしたのも、人間は「内輪もめ」するからなのだ。もし皆が、いつも仲良くいられるなら、「法」に記す必要はない。仲良くいられないから、決まりを作る必要が出て来る。もう一度尋ねる、どうして人間は「内輪もめ」するのか。人間の営みには必ず「利害や利権」が絡むから、さもありなん。但し、初代教会には、利益供与など無縁なほど、金がなかった。では「権力志向」か、さもありなん。しかしまだ組織として全く未熟で、役員、つまりお世話係(ディアコン)があるくらいの程度。
最も妥当な答えは、「内輪もめ」の原因は、「真面目だったから」、というのが一番ふさわしい説明だろう。真面目だとどうして「内輪で争う」ことになるのか。それは他人の過ちや欠点や落ち度やいい加減さを赦せないからである。なぜ赦せないか、それは「自分は一生懸命やっている」という自負を背景に生じる優越感、できない人に対する軽蔑、ずるさへの嫌悪、そしてそういう人間のだめさの一切が、教会をゆるがし破壊する、と思い込んでしまうからである。
マタイはこの個所で、主イエスのきわめて大胆な言葉を引用する。「だから言っておく、人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦される」。おそらくこのみ言葉は、主イエスの口にした言葉の通り、そのままの伝承であろう。神は人間がどれほど多くの罪を犯しても、ひどい的外れなことをしでかしても、あるいは思い上がって傲慢となって、自分を神のように思い込んでも、赦されるのだと言われる。皆さんは、この言葉の前にたじろがないか。そんな全てが赦されるのであれば、この世の秩序や正義や安心はどうなるのか。それでは社会が成り立たないではないか、と思われるだろうか。
「ゆるす」あるいは「ゆるされる」とはどういうことか。日本語の語源は「ゆる(緩)む」から来ており、固く締められたものや力を「ゆるやかにする」という意味がある。即ち「両手で糸を持ってピンと張り詰めていた状態から、ふっと力を抜く様子」に由来するという。ここで用いられているギリシャ語“άφεςις”も、元来「発送、外に送り出す」から派生しており、「(しばられていた状態から)解き放つ、自由にする」という意味に膨らみ、「罪をゆるす」という意味に敷衍されたと考えられている。
22節「そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった」。この癒された人を見て、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」とファリサイ派の人々は論評した。主イエスのおこなった癒しのわざを、「ベルゼブルの力」としてしか見なすことが出来ず、受け止められない心、それこそ頑なで、まったくゆるさのない思い、そうだとしたら、その人はゆるしの世界とは無縁であろう。「聖霊への冒涜は許されない」と主は言われるが、聖霊の与える賜物とは、主イエスのおおらかさ自由さなのだから、それを拒絶していたら、すべてかちこちに固まってしまって、ゆるみ、ゆるしどころではなくなるだろう。
皆さんはこの場面をどう受け止められるだろうか。どのようにして癒しが起ったのか、この奇跡は本当か、目が見えず、言葉も失われた人が、主イエスによって癒された。これを目の当たりにして、「なぜ」ではなく「治ってよかったね」、とその人と共に喜ぶことはできるか。共に喜ぶことを欠いているなら、「目が見えず口の利けない」のは、果たしてどちらなのか。
先週の火曜日、11日に東日本大震災から14年目を迎えた。ある地方紙がこうした記事を載せていた。「自分の体験を胸に刻む。そのとき心は、見えない『仕分け』を行っているという。『楽しい記憶』を6割、『悲しい記憶』が1割、『どちらでもない記憶』は3割の比率に整理していく。悲しみに満ちた胸の中も、やがて浄化され、心のバランスを取り戻す。それが歳月の力でもある。東日本大震災からきょうで14年。この日がめぐるたび、年々『記憶の風化』が叫ばれる。大切な家族や友人を失った被災者、原発事故の影響で今なお故郷に戻れないままの住民たちが『あの日』を忘れることはないだろう。記憶を薄れさせているのは、被災地の外で『痛み』と無縁でいる私たちの心の問題かもしれない」(3月11日付「有明抄」)。
「悲しみに満ちた胸の中も、やがて浄化され、心のバランスを取り戻す。それが歳月の力でもある」という。大きな悲しみのゆえに、「目が見えず、言葉も口にできない」日々から、人は解放される。幸いだと思う。しかし「記憶の風化」によって、心に刻みつけておくべきことについても「目が見えず、言葉も口にできない」ようでは情けない。「『痛み』と無縁である私たちの心」という言葉が胸に突き刺さる。主イエスのゆるしの力を、ベルゼブルの力としてしか見ることのできない鈍感さ、かたくなさと表裏一体であろう。
主イエスは十字架の道を歩まれ、血を流された。この痛みを負う主イエスから目を背ける時に、私たちは、人間ばかりに目が行き、自分ばかり、他人ばかりが気になり、ベルゼブルの力に飲み込まれることになる。主イエスは、私たちの赦しのために、即ち、身体、心、そして魂をゆるめるためにお出でくださった。私たちが癒されて、赦されて、魂が柔らかくなり、共に生きられるように、十字架への道を歩まれたのである。