「わたしは去っていく」ヨハネによる福音書8章21~28節

ある地方紙にこのようなコラムが掲載されていた。「五・七・五の調べや季語にとらわれない自由律俳句の旗手だった尾崎放哉(ほうさい)(1926年没)に〈咳(せき)をしても一人〉の句がある。破天荒に生きたのち、病と貧困の中で詠んだ晩年の作と知れば味わい深い。『一人』『独り』は孤独や寂しさをまとうが、『気ままな一人旅』というように『少しの自由』も感じさせる。一人カラオケ、神社仏閣の一人参拝、高級ホテルの一人泊…。その妙味を語る人も多い。博報堂の生活総合研究所は、歳月を挟んで国民に同じ質問を投げかける『定点調査』をしている。『一人』にまつわる意識も、時代とともに変わったらしい。93年、『意識して一人の時間をつくっている』のは27%で、30年後の昨年は49%に伸びた。『一人でいる方が好き』という答えは、93年の43%から昨年は56%に増えている。横並びの行動を好んできた日本人が選択の幅を広げたとすれば、粋な変化だろう」(1月19日付「水や空」)。

「孤独」に対する捉え方の変化に、コラムは「粋な」と呼ぶのだが、どう思われるか。一国の政府に「孤独省」が設けられ、「孤独担当大臣」が任命される国がある時代である。「孤独」は、現代社会の重大なテーマ、キーワードには違いないが、ただ「元気なうちは『孤独』もいいが、身体や心が病んだら、『粋だ』などと言っておれない」、という切実な声もあるだろう。皆さんはこの調査アンケートに、どう反応するだろうか。

今日の聖書個所の冒頭、主イエスは言われる「わたしは去って行く」。この文言は、7章33節以下にも語られ、さらに16章の「告別説教」にも繰り返されている。いわばこの福音書の常套句とも言える文言であり、マルコ福音書の「受難予告」に比せられるであろう。同じ言葉を繰り返す、というのは、やはり語る人の本音、こころ、強調点がそこにある、ということである。「主イエスの苦しみ」を何度も語ることで、マルコは「十字架」を直視することなしに、主イエスの生涯を、み言葉を正しく受けとめることはできない、と強く訴えているのである。

ところがヨハネは、「十字架」という限定的な事象を超えて、もう少し広範に「去って行く」という姿、有様、それは人間、即ち生命あるものにとって必ず出会うことになる宿命を通して、信仰の本質を問おうとするのである。否、信仰ばかりか人生の根本に、この事柄は横たわっており、問いを投げかけて来るのではないか。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」。「ああ、あの人は去って行った、あの人も去って行った」という感慨を抱くことがあろう、住んでいる地域の人、同じ町内会の人々、会社や社会の人間関係、その集まり、趣味や娯楽のサークルで、あるいは教会においても、しばしば「去って行った」という事態を味わいつつ私たちは生きている。学業、就職、転勤、退職等の理由で、教会ならば「信仰」の問題で、そして最も生じて来るのが疾病、入院により、さらには「死」という離別によって、わたしたちはいつか、今いるところを「去って行く」のである。親しくしていた方がいなくなるというので、後に残される人々は、寂しく歯が抜けたような空虚を味わい、悲しい気持ちになるだろう。しかし、私たちは例外なしに、我が身のこととして「去って行く」のである。「あなたたちはわたしを捜すだろう。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」、捜して、何とかそこまで行ける所ならば、再び相見るという望みや可能性は残るだろう。ところがこの世の「別離」は、中々そういうわけにはいかない制約がつきまとう。だから、いきおい「ひとり」がそれぞれの人間にとって、重大な問題となる。「意識して一人の時間をつくっている」、また「一人でいる方が好き」とはっきり言えるから、「大丈夫、問題はない」、という人があるかもしれない。

良くも悪くも、コロナ禍がもたらした、新しい生活や行動のスタイルがあるが、その中で「ひとり」が顕著に上げられるだろう。かつては複数人数で楽しんでいたイベントや習い事も、今やひとりが楽しい、もしくは、ひとりのほうが良いときもあるという時代になったのである。「おひとり様」と言われていたあり方も、かつての「仕方なく、強いられて」というマイナス要素ではなく、「どうせ一人よ」といった開き直りや自虐感のようなものではなく、積極的にひとりで何かに取り組む過ごし方が、好感をもって受け入れられているように見える。この生き方は「居独(きょどく)」と命名されているらしい。それは、「日常にひとりの時間や空間を作って、好きなことに没頭するなど、自分と向き合うことで解放と開放を求める生活のデザイン」(電通)だというのである。「ソロ活」のように「活動」と呼ぶほどではない、“瞑想”や“散歩”なども含まれ、「ひとり」を楽しむこと全般を指す言葉であり、自覚的に「ひとりで『いる』」ことを表す意図により、「居」の文字を入れているのだという。「孤独」といえば寂しく侘しいが、「居独」ならば自分から積極的に一人を楽しむという意味合いになる。

「孤独」ではない「居独」だ、ということで、「ひとり」を翻って生きようとする姿勢に爽快感を感じるが、今日のテキストでは、ヨハネはいささか「ギョッ」とすることを語っている、しかも繰り返しそれを言及するのである。21節、そして24節「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」。「罪」という用語は「犯罪、悪」を連想させるので、誤解が生じやすい言葉である。もともとは「ねじれ、くるい、的はずれ」という意味で、本来のあり方から外れてしまっていることを、指している。その「ねじれ」とは何か。24節「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」

「ひとがひとりでいるのはよくない」(創世記2:18)とは聖書の人間観の根本的考え方である。「ひとりで『いる』」ことは、「ひとり」ゆえに、わたしの人生のすべてを、自分だけで抱え込まねばならないということなのだ。誰とも何も分かち合うものがなければ、人生どうなるか。特に、自分の最も魂の奥底に押し込めている闇、妬みやおごり、やっかみ、恥や虚栄、偏見、侮蔑などの心もまた、誰か何者かと分かち合って、砕かれるものであるから、それで何とかいのちが保たれている訳である。『わたしはある』ということを信じないならば、そうでなければ、闇を自分だけで背負い続けなければならない。主イエスはそういうあなたのねじれ、くるい、的はずれと共にあると言われたではないか。十字架の上に、私の罪とひとつになって、死んでくださったではないか。ここに最期の自分を投げ出す「わたしはある」という拠り所がある。

尾崎放哉の伝記的小説『海も暮れきる』を著した吉村昭氏の人物評によると、この俳人には、性格に甘えたところがあり、酒を飲むと人が変わり、勤務態度も不良なため、会社を馘首された。だから人生に行き詰まり、ひとりとなり、彼は流浪の生活を送り、晩年のわずか八か月を岡山県小豆島に寺男として暮らしたが、島での評判は極めて悪かったという。著者が1976年(没後半世紀)に取材のため島を訪ねたときすら、地元の人たちから「なぜあんな人間を小説にするのか」と言われたほどで、「金の無心はする、酒ぐせは悪い、帝大出を鼻にかける、といった迷惑な人物で、もし今彼が生きていたら、自分なら絶対に一緒にいない」と、作者自身も語っている(だから文学になる)。それでも、島の素封家で俳人の井上一二(いのうえいちじ)と寺の住職らが支援し、近所の主婦が下の世話までして臨終まで看取った、というのである。どうやらこの俳人の「甘え」は正真正銘だったようで、「ひとりでいる」という彼の人生のどこかに、『わたしはある』という何ものかが、絶えず、最期までひとりの歩みを共にしたらしい。ひとり罪の中ではなく、看取られて死ぬのである。

最初の記事の続きをもう少し、「放哉には〈こんなよい月を一人で見て寝る〉という句もある。寂しさが漂うが、月を独り占めして心ゆくまで眺める“ぜいたく”もにじむ。被災地で独り暮らしをする親の安否を確かめる。家族は遠くに避難したが、自分はここに一人で残る…。災害時の『一人』が胸に迫るいま、『一人が好き』と言えるのは、穏やかな平時のしるしでもあると気付く」。

「『わたしはある』と信じないならば」と主は言われる。ヨハネはこのひとつに、人間の人生の歩みの中心を見ている。私の状態がどのようであれ、どんなに小さくされ、ひとりにされていても、そこに「主イエスはある」かどうか、なのである。「『一人が好き』と言えるのは、穏やかな平時のしるし」かもしれないが、どうしようもなく「ひとり」で置かれる時も、「わたしはある」のみ言葉が響いている時に、そこには平安が訪れるのではないか。