木枯らしが吹いて、陽だまりが恋しい季節が到来した。イソップの寓話中に、「北風と太陽」の物語はよく知られている。ある日、北風と太陽が「どちらの方が力があるか」言い争っていた。そこで、北風と太陽は、歩いている旅人の服を脱がせるという勝負をすることになる。まず北風はあらんかぎりの強風を吹かせて、旅人の服を吹き飛ばそうとするが、旅人は寒さに凍え、服を脱ぐどころか、しっかりと羽織った。次に攻守を変えて、太陽が光をサンサンと照らすと、旅人は「暑い暑い」と、あっという間に服を脱いだ、という。
ところがこの物語には、逆パターンのバージョンもある。「旅人の帽子を脱がせたほうが勝ち」という勝負も行われたという。その勝負では、まず太陽が旅人をサンサンと強い光で照らす。しかしその強い日差しに、旅人はいっそう深く帽子を被ってしまうのである。次なる挑戦者の北風が、旅人に向かって強い風を吹いたところ、被っていた帽子を簡単に吹き飛ばすことができた、という結末。
この寓話集には「強さ、弱さ」を主題にした物語が多く含まれている。そして既述の物語が典型的なように、「強さ、弱さ」とは絶対的な基準ではなく、相対的なものであり、状況や立場に応じて逆転したり、随分形相を異にする、ということだろう。
今日の聖書個所の冒頭1節に、著者はこう記している「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」。「強い者」と呼びかけられているが、これを目にする皆さん方は、どう受け止めるだろうか。確かに私は「強い者」だと思うだろうか。きっちり統計を取った訳ではないか、ほとんどの人は否定するのではないか、いやいや私は「強く」などない、と。
それではこう言われたらどうか。ラ・ロシュフーコーという思想家(1613年~1680年、フランスのモラリスト文学者。著書『考察あるいは教訓的格言・箴言』)の言葉、「我々は皆、他人の不幸に耐えるだけの強さを持っている(箴言 No.19)“Nous avons tous assez de force pour supporter les maux d’autrui”」。確かに、戦争や悲惨な災害の下に傷ついている人々の有様を伝え聞いて、心を痛めるということはある。しかしだからと言って、その痛みや悲しみを慮って、食事ものどに通らない、ということはないだろう。しかしこの思想家のように、極端な見地から決めつけられたら身もふたもないではないか。彼も決して罪なき一般大衆?を断罪しようという意図などないのは言うまでもないが、「強さ、弱さ」が非常にあいまいで主観的で、相対的なものであることが示されているであろう。
この個所で「強い者」とか「弱い者」と言われているのは、14章で議論されている「(偶像に捧げられた)肉を食べる」と「食べない」の問題を受けてである。14章1節に「信仰の弱い人」とは、肉を食べずに野菜だけを食べていた人々のことで、偶像の神々の前に供えられた肉は汚れているから、ただひとり真の神を信じる信仰者はそれを食べるべきでない、と考えていたのである。それに対して、主イエス・キリストによって「すべてのものはきよい」と宣言されたのだから、これを食べたら汚れる、というようなものはもはやない、何を食べてもよいのだ、と考える人々がいたということである。この手紙の著者、使徒パウロ自身もその一人である。彼は、何を食べてもよいと考えている人を「信仰の強い人」、食べ物の掟にこだわっている人を「信仰の弱い人」と呼ぶのである。
つまり「強さ、弱さ」とは、「食べる、食べない」という問題に関わるものだったということである。現代の私たちにしてみれば、どうでも良い事柄で、もちろん普通は口にしないような食物を、平気で食べることのできる人や、そういう生活習慣を持つ人とは、相容れないというかもしれないが、なぜそれが「信仰」の「強さ、弱さ」に関わって来るのか、あまりピンとは来ないだろう。
宗教とか文化的な背景によっては、明確な食物規定、禁忌(タブー)を守って生活している人々もいる。そういう方々を、「強い、弱い」という見地から考えることはあまりしないだろうが、問題は、人間やその存在のあり方を、「強さ、弱さ」で区分けし差別化することにあるだろう。既述のように、それらは非常にあいまいな観念で、主観的で、相対的なものといえるからである。さらに悪いことに、それをもって「裁き」が生じることである。
パウロが言いたいのは、「強い人」がいいとか、「弱い人」が正しいとかではない。「強い」「弱い」という風に、多様な人間を、無理やり2つの種類に分断し、その一方を排斥することなのである。そもそも「強弱」という発想自体が、神の創造の秩序にそぐわないと言えるのである。神は、すべての被造物を、強いものと弱いものとに分けて造られたのではなく、みな総じて「恵みの器」なのである。とりわけ人間は、すべての者が、等しく「神のかたち」であり、そこでは強弱は全く問題にされていないからである。
パウロは「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」と語るのは、人間の強弱を承認しているのではなく、強さを自認する者が、その強さを盾に、自分の価値観を押し通すことを問題にしているのであり、人間のあり方は、人間の目から強いにせよ弱いにせよ、「担う」こと、つまり支え合うしかありえないのだと主張しているのである。
ある教会の懇談会で、「キリスト者らしさ」について意見が交わされたという。出席者が喧々諤々と様々に発言し、収拾がつかなくなった、という。「らしさ」とは個性であり、キリスト者と言えども、その生き方、信仰の表現はさまざまであろう。しかし誰かが「キリスト者らしい飯の喰い方はない」との発言で、議論は終わりになったという。初代教会で、「食」を巡って、人間の「強さ」、「弱さ」が議論になったというのは、滑稽な気もするが、「食べる」という人間の最も基本的な生命維持活動が、いかに重要かを感じさせられるのである。
高齢者の介護の現場で、「延命措置」についての難しい問いがある。本人、さらに家族が、延命のための医療を行うか、判断を迫られるのである。そしてその一番の事柄が、「食べる」ことについてなのである。それが困難になった時に、どこまで行おうとするのか、この判断は、簡単なものではないだろう。しかし、この時にも「おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」のみ言葉に向かい合うのである。私たちはそこでできる「善」をひたすら行うこと、そこにも喜びがあるかどうか、を問うこと、さらに「向上」、即ち神のみ前にこころを開いて、祈ることであろう。