「公平と正義をもって」エレミヤ書33章14~16節

こんな詩に出会った。『ぼくのゆめ』、「おおきくなったら なにになりたい?/と おとながきく/いいひとになりたい/と ぼくがこたえる/おこったような かおをして おとなはいう/もっと でっかいゆめがあるだろ?/えらくならなくていい/かねもちにならなくていい/いいひとになるのが ぼくのゆめ/と くちにださずに ぼくはおもう/どうして そうおもうのかわからない/だけど ほんとにそうおもうんだ/ぼんやり あおぞらをみていると/そんぐ(ぼくがかっているうさぎ)のあたまを なでていると」。この詩は『こどもあそびうた』という題名の、谷川俊太郎氏の詩集の中の一編であるが、この人らしい作品だとつくづく思う。

皆さんは、自分の子が「いい人になりたい」と言ったなら、どう反応するだろうか。この国の子どもに、「大きくなったら何になりたいか」という調査は、生命保険会社や教育関係、マスコミ等、毎年、さまざまな機関が調査して、結果の報告を行っている。あるテレビ局(TBS)の調査では、昨今の子どもがなりたいものは、何か。「1位.ユーチューバー」、「2位.マンガ家、イラストレーター、アニメーター」、「3位.芸能人」、「4位.ゲームクリエーター、プログラマー」、「5位.パティシエ、パティシエール」と言う具合で、現代人の若者や子どもたちの興味関心の在りかがよく反映されていると言えるだろう。

他方、親たちが「子どもに就いてほしくないもの」として挙げているのは、「1位.ユーチューバー」、「2位.芸能人」で、不安定な仕事ではなく、もっと堅実な職業を目指してい欲しい、というのだろう。「3位.自衛隊」、が上げられ、世界で戦争や紛争が絶え間なく起こり、「いつ何時、この国も」という事態を考えてしまうからだろう」。「4位.政治家」、あまりに利権まみれ、金まみれに不快感を持つ、ということか。そして「5位.介護士」、これには考えさせられる。おそらく親たち自身も、いずれはお世話になるだろうエッセンシャル・ワーカーであるのにも関わらず、大切な仕事には違いないが、過酷すぎる、という認識なのだろうか。

かの詩人が「よいひとになりたい」という夢を、少年の口に乗せて、詩を書いたことに、大きな興味を感じる。なぜなら、聖書に「期待される人間像」なるものがあるとすれば、非常に抽象的に感じられるが、「よいひと」という言葉に尽きるではないかと思う。聖書はとりわけ知恵文学では、実に「よいひと」を問題にしているのであり、古今東西、さまざまな文学も、何とかして「よいひと」を描き出そうと、試みているのである。そもそも「よいひと」とはどのような人なのか。

今日は預言者エレミヤの言葉に目を向ける。預言者はさまざまに、やがて来られるであろう「メシア(油注がれた者)」即ち「救い主」について語っている。エレミヤは、ユダの王国の末期から、バビロン捕囚、ユダの人々が、異郷の地、バビロンに生活するに至る自時代まで活動した人で、もう少し詳しく言えば、召命を受けたのは、南ユダ王国のヨシヤ王の治世第13年(紀元前627年)であり、バビロニアによって王国が滅ぼされ、エルサレム神殿が崩壊し、人々がバビロンに捕囚された後、紀元前568年に、ユダの残りの者によって総督ゲダルヤが暗殺されると、その後の混乱の中で、エジプト逃亡を主張する一団に無理やりエジプトへ連行されるまで、その職務は続いたと考えられている。実にこの預言者程、長い期間、預言者の職務に携わったものはいない。10代からほぼ60年の間、預言者の職務にあったと思われるが、その間、彼には人々の無理解と迫害、苦難、強制がいつも付きまとっていた。一つ現代的なのは、リモートワークもどきの働きをも行っていることである。最晩年、無理やりエジプトに連れて行かれたから、バビロンに追放された失意の人々に対して直に何もできないので、書記のバルクに書かせた手紙によって、現実的具体的な指示と、希望の在りかとを教えたのである。今日の個所は、まさにこの預言者が絶望的な状況の中で、希望を失った人々に告げた預言の言葉、「最後のエレミヤ」と呼んでもいい言葉である。

33章の冒頭に、「エルサレムの復興」という表題が付けられている。この時、エレミヤが見ている祖国の様子は、10節「廃墟で人も住まず、獣もいないと言っているこのユダの町々とエルサレムの広場」、また12節「人も住まず、獣もいないこの荒れ果てたこの場所、またすべての町々」この荒れ果てた不毛な廃墟を目にして、預言者は、今は見えない幻を語ろうとするのである。「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みの約束を果たす日が来る、と主は言われる」。それはどういうことかと言えば「その日、その時、わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる。彼は公平と正義をもってこの国を治める」。これはエレミヤのメシア預言である。

彼は、祖国と神の神殿がすべて灰燼に帰してしまった後に、その廃墟に立って、滅びた都を実際に目の前にして、メシアの到来を告げるのである。彼はダビデの若枝として、「公平(ミシュパート)と正義(ツェダカー)」をもって国と人々を治めるという。およそあらゆる政治において、この2つのものは欠くべからざる礎である。この2つのものを欠いては、到底、国が保たないことは、歴史の証しするところであり、聖書にもこの2つの用語は、最も頻出の言葉である。そして重要なのは、この2つがどこからもたらされるかなのであり、預言者はそれを的確に示している。実に「神の恵み」から来るというのである。

ところが「恵みの約束」と訳されている言葉は、原文はもっと単純な言葉である。「わたしが語ったよいこと」。神はひとえに「よいこと」をなさる方であり、語ったことをないがしろにしたり、有耶無耶にしたりされる方、自腹を切らず、空手形を切られる方ではない、ひとえに「よいこと」をなさる。だからそのよいことの結実が「正義と公平」なのである。神の「よい」とは何か、創世記の天地創造のみわざの中で、ひとつひとつの造られたものをひとつ一つを見て、「良しとされた」というように、神は必ず、よいことを、この世界に行われる、というのである。

もちろん、神の「よい」こと、と人間の都合のよいことが、まったく同一であって、違いはない、等ということはない。人間は、自分の「正義」と「公平」に固執するから、それは得てして、自分の利害や利得の反映している「正義」や「公平」だから、余計に質が悪いとも言えるだろう。自分の願い通り以外は、すべて悪なのである。自分の正しさ、人間のよさは得てして道を誤らせる。しかし、人間にとって好都合であろうとなかろうと、人の都合がよくても悪くても、神は御自身のよいみこころを表されるのである。

さる九月二十二日、モスクワの修道院で、ロシア正教会の最高位にある聖職者、キリル総主教の説教がなされた。プーチン大統領がロシアの予備役三十万人の動員を決めた直後のことである。「ロシア人は死を怖れてはならない。勇敢に軍での使命を果たしなさい。国のために命を捧げる者は、神の国と栄光と永遠の命の中で、神と共にあることを覚えておきなさい」(ヤフーニュースより)。この言葉は、私たちの心を暗澹とさせる。20世紀の2つの世界大戦の中で、しばしば同じ言葉が、争い合う国の人々に対して、強く語られたのである。そして第二次大戦からも80年近い時が経つというのに、いまだに「国に命を捧げる者は、永遠の命を得る」とうそぶくのである。何よりがっかりさせられるのは、この言葉にはまったく、主イエス・キリストへの視点が欠けていることである。主イエスは十字架で死なれたのは、国や神殿や王や大祭司の為ではなかった。罪人のため、最も小さいひとりのために、血を流された。そしてその死によって、すべての人と、ひとつに共にあろうとされたのである。そこにしかみ国の門、永遠の生命は、開かれていないのである。

福音書中によく知られている「富める青年の話」がある。彼は主イエスにこう呼びかける。「よい先生」、彼にとって主イエスを評するのに、この言葉以上にふさわしい言辞を、思いつくことがなかったのであろう。まさしく余計なものを全て取り去って、利害や打算というような思惑を超えて、ただ人と人との出会いや関係から、「よいひと」以外には、何も言いようがなかったのであろう。真の人間関係とはそういうものである。この「よいひと」という呼びかけに答えて、主イエスは言われる、「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者は誰もいない」。ただ「神」だけが、「よい」という言葉にふさわしいというのである。確かに、人間は、どんなに優れた者であっても、どんなに徳のであるものであっても、所詮は人間なのである。欠けやあやまちや、つまづきと共に歩んでいるのである。

しかしそうした悲しい人の世に、神は、ご自身の「よい」を表してくださるのである。神の「よい」の根本には、「あわれみ(ヘセド)」がある。「ヘセド」は、聖書も最も大きなキーワードで、神のすべてを表す言葉である。「あわれみ、いつくしみ、ただしさ、悲しみ、痛み、愛」、神はこの世にご自身の「ヘセド」を見える形に表された。それが神のひとり子、主イエスの誕生である。神のヘセドが今、私たちの間に表されて、私たちの生命の中に息づいた、これこそクリスマスである。本当にまぶねの中に生まれた幼児を見つめたい。そしてそこに表されている神のあわれみに、ひれ伏したいと願うのである。