祈祷会・聖書の学び ローマの信徒への手紙9章30~10章4節

車で山道を走っていると、時折「落石注意」の道路標識を見ることがある。偶々ある時、おそらくは落石が直撃したのだろう、見事につぶれている「落石注意」の標識があったが、心胆寒からしめる思いと共に、複雑な気持ちになった。警告を発しているその当事者が、その警告通りに犠牲となる、この世の自然災害では、しばしばそれが現実となるところが痛ましい。

もっとも事情が違う場合もあるようだ。アメリカ・コロラド州南西部のドローレス近郊、高さ300メートルの山から、ハイウェイ145号線に、巨大な石が転がり落ちて来て、道路を塞いでしまった。ところがその邪魔者は撤去されることなく、そのままの状態で残されることになったというのである。かの州知事の弁によれば、国道はこの巨大落石を避けるように作り変えられる予定、爆破して解体、除去ということになると20万ドルの費用がかかるために、復旧作業における経費節減のために、道路の方を横に移動させることになった、という。

一軒家ほどの大きさがあるこの石の重さは推定で3855トン。知事は「観光資源」としての価値があると見ており、復旧工事が終われば、新たなランドマークとして注目を集めることになりそうだ。但し、この大石によって何らかの災害が生じなかったことが、幸いである。古代人は、山から下に落下した巨大な石を、「神の寄り座」とみなして祀ったが、それは、自然に対する畏怖から来ているだろう。現代は「観光資源」である。

今日のテキスト9章32節に「つまずきの石」という言葉が語られる。イザヤ28章16節と8章14節からの引用である。28:16「もしおまえがその方に信を置くならば、その方はお前にとって聖なるものとなる。お前たちは、石のような躓きや落下する岩石に(遭遇するようにして)その方に出会うのではない。しかし、ヤコブの家は罠の中に(置かれ)、エルサレムに住む者たちは落とし穴の中に(置かれる)。」8:14「それゆえ、主はこう言われる。「見よ、私はシオンの礎石に高価な極上の石を据える。その礎石にこの上もなく貴重な隅石を(用いる)。彼に依り頼む者は恥じ入ることがない。」

昔、「デモクリ」とか「クリクリ」「コソクリ」という言い方があったそうだ。「あの人でもクリスチャン」と言われてはならない。「クリスチャンらしいクリスチャン」であることに努めるべきだ。そして「あの人こそクリスチャンだ」と言われるようにならなければだめだ。ただ「らしさ」をあまりに教条的にとらえると、実に窮屈、人間であることを止めて、出て行かなければならないようなことにもなるだろう。

「つまずきの石」、誰かをつまずかせるような信仰者になってはならない、とは思う。ある人が教会に来なくなる。いろいろ原因はあるだろう。病気、奉仕、献金、試練、家族、しかし最も多いのは、人間、それも同じ信仰を抱く教会員、そして牧師が原因で、教会から遠ざかってしまった。自分の期待を裏切った、自分の思いが、信頼が裏切られた。よく聞く話である。確かに「つまずきの石」がある。しかも教会の中にある。そんなものなければ都合がいいのだろう、しかし当然のことながら、教会は地上のこの世にある。天国の教会の写しではあるが、そっくりそのままではない。

今日の個所にイザヤ書から引用された「つまずきの石」が語られている。そもそもこの「石」は何を指しているのだろうか。皆はどう思うか。普通「つまずき」というと、人間、その振る舞いや言葉を表すと考える。そして、どんな素晴らしい人間も、優れた人間も、つまずきの石、どころか「岩」なのである。だから心配する必要はない。教会につまずきたかったら、誰でもいいから、そこにいる人間を見たらいい。牧師をはじめ誰を見ても、つまずくこと受けあいである。これだけは保証する。

ところがパウロはこの「つまずきの石」を神のなさるみわざ、それを置くのは、他ならぬ神の働きであるという。神は、信じる者のために、わざわざ「つまずきの石」を置いている、というのである。随分意地悪な神ではないか。障害物を、わなを信仰者の足元に置

くのだという。それは何のためにそうするのか。

パウロは「つまずきの石」、それは他ならぬ主イエスご自身だと言うのである。パウロはこう語る。30節「では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。」。異邦人、律法も知らない、神の言いつけを守る努力もなしに、のんべんだらりを生きている適当な輩が、正しいとされ救われる。これでは自分たちの業は、努力はどうなるのか。まじめに努力する自分たちが苦しんで、逆にのうのうと生きている人間が、楽をしている。不公平だ。しかし主イエスは、はっきりとそう語ったのである。「あなたがたより先に、取税人や遊女たちが神の国に入る。神の国は子どもたちのものだ」。

以前仕えていた教会で、創立記念日礼拝が行われた。創立から半世紀たって、「今、その歩みを振り返れば、人間の手の業はことごとく消えて、ただ神のみわざだけが残っている。神のみ恵みだけが、教会には残るのだ」。するとある方が反論された。自分たちはどれほど苦労して、力を尽くして教会を建てるために努力してきたか。それを「神の恵み」の一言で済まして欲しくない。思いは分かるが、人はおのれの努力に自負し、実に「神の恵み」の前に、躓くのである。信じること、そして救いは、ただ神の一方的な恵みから来る。恵みよりも自分の方を大きくしてしまう、それこそが一番の思い違い、的外れ、罪である。

そして人一倍まじめな努力の人パウロは、この「つまずきの石」に足を取られ、物の見事にもんどりうって、ひっくり返ったのである。幸いなのは、彼はそこで目が覚め、目が開かれた、人間の行い、努力は、キリストの十字架の恵みの前には。ひとたまりもない。「俺は今まで何をやって来たんだ」。この体験を知らない信仰者は、嘘である。

6節の言葉は、パウロ独特の滅茶苦茶な比喩なので、はなはだ分かりにくいが。要は、どうがんばっても天国行、地獄行は、人間が決めることのできる事柄ではない。ぞれなのにあたかも人間の努力でどうにかなると思い込んでしまう。それでは神の恵み、主イエスの恵みを追い出してしまうようなものだ、ということである。実際、教会は、贖宥状を発行して、神の恵みを自分の自由にできるかのように、ふるまった。それに対しての痛烈な批判が、ルターのプロテスタント精神である。「ただ恵みのみ、信仰のみ、キリストのみ」。

だからルターに倣って言うしかない「我信ず、我ここに立つ、神よ、お助けください」。