この国で、2005年に村上龍という作家によって、一冊の小説が公にされる。『希望の国のエクソダス』。「エクソダス」とは、「出エジプト」のことである。その中にこういう一節がある。「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」。現代のこの国を言い表す、非常に象徴的な言葉である。何でもある国、しかし希望だけがない国。自信のなさ、プライドのなさ、意欲のなさ、目標のなさ、がその現実を明らかにしているといえるだろうし、さらに今、この国や世界を取り巻く状況のすべての根元に「希望」という問題が関わっているように思える。
ここ数十年の間に、私たちの国は大きな自然災害に繰り返し見舞われて来た。未曽有の災害からの復興の道すじにも、空虚で暗澹たる思いの中からでも、一歩ずつの歩みが刻まれて来た。その経験の中で得られた、一番重要なことは、喪われた「希望」を、もう一度どのようにして見出すか、どのように作り出すか、という課題であるだろう。
東日本大震災とちょうど符合するように、2011年、東京大学の社会科学研究所で「希望学」の研究が始められた。大学で「希望」についての研究が始まるというのは、非常に複雑な感触である。およそ大学での研究というのは、最先端の科学研究のように、新しい発見や、未知で不可解な現象等を対象にするものと思いがちである。そういう学問の府で研究しなくてはならないほどに、「希望」が貴重なものになったのか。希望という人間として生きるに当たり前に思える事柄が、学術研究という形で、大学で取り上げられる。何となく滑稽である。
それなら大学の学術研究が、人生における希望の見つけ方を教えてくれるのか。そうなのだ。教えてくれるのだ。希望学によれば、希望とは次のように定義される。「希望は、行動によって、何かを、実現させるための、こころのことである」。そして希望を作り出すには、4つのものが必要だというのである。1、希望を求める気持ち、願い。2.何か、具体的な目標、3.実現するための方法、4.行動、この4つがあれば、希望が得られるというのである。見事である。しかし問題は、今のこの痛みに満ちた日本で、これが語られて、それで私たちは希望を取り戻せるのか、ということである。
今日の聖書の箇所じは、いわばパウロによる希望学である。この章は、「ホープ、希望」という言葉で始まり、キーワードともなっている。3節後半「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」。私たちが希望を失う時、というのは順調な時ではなく、苦しみの時である。そしてさらに言えば、理由のない苦しみの時、つまり不条理の苦難のときである。しかしその理不尽な苦しみに対して、顔を下に向けたり、後ろを見るのではなく、まっすぐ前を向く、苦しみの向こう側にあるもの(目標)を見ようとする。それが聖書の「忍耐」という言葉の意味である。するとそこからどのように行動していけばいいのか、対処のアイデアや工夫が生まれ、スキルも身に付いてくる。それが練達ということである。これによって希望が見出される。現代の希望学とほとんど変わらないことを、既にパウロは語っているのである。
ただし、そこからである。パウロの希望学が大学のそれと異なる点は何か。先ほど「忍耐」という言葉が、苦難の中で、顔を上げることだ、後ろや横をみることではなく、前を向くことだ、と語った。日本語の「忍耐」のイメージとは随分ニュアンスが異なるのである。実はこの「忍耐」という用語は、他の箇所では、「希望」という意味でも使われる言葉なのである。聖書の忍耐とは同時に希望を含んでいる。つまりパウロの苦難は忍耐を生み、とは「苦難は希望を生み」とも訳せるのである。苦難は、最初から手順を踏まない先から、おのずと希望を育んでいる、ということができるかもしれない。あえて言えば、苦難が襲ってくる時、希望も同時にくっついてくる、というのが聖書の考え方である。
なぜそんな無茶なことが言えるのか、その理由をパウロは8節において語っている。「わたしたちが罪人であったとき、(今も罪人である)キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」。この神の愛が私たちの心に注がれている。聖書を読み、そこで見えてくる神とは何者か。それは捨てる神である。聖書には神から見捨てられた人が描かれている。その一番の人とは、主イエス、その人である。十字架上での叫び「エリ、エリ、レマ サバクタニ、わが神わが神、どうしてわたしを見捨てたのですか」。実にイエスの口から「捨てる神」が語られる。そうしてこのイエスの叫びに、神は何も語られないのである。
しかしその神から捨てられる、という十字架の出来事から、再び新しい命が生まれ、復活の命がほとばしり出る。御子イエスを捨てられた神が、新しい命を吹き込まれる。捨てる神は、同時に拾う神でもある。これは聖書の物語の中だけのことではなくて、私たちの人生にも起こることを、パウロは証しするのである。「苦難は忍耐を生み、忍耐は練達を生み、練達は希望を生むと言うことを。そして希望は、わたしたちを欺くことがない」。イエスの十字架を目の当たりにすることなしに、私たちは本当の希望に出会うことは出来ないだろう。それは十字架と言う死のしるしが、新しい命によみがえるしるしであること、捨てる神が、豊かに命を与える神であること、十字架においてこの神と出会うのである。
東日本大震災では、東北地方のみならず各地域で多くの被害をもたらした。東京でも大規模停電により、公共の交通機関の寸断、たくさんの帰宅困難者を生み出したのである。それぞれの家庭でも電気が止まり、夜に灯りが点らず、生活に多大な支障が生じた。人々は懐かしい「ろうそく」を求めて、スーパーや小売店に走ったのであるが、在庫はすぐに払底し、不自由な生活を強いられた家庭も多い。そういう状況の中、こんな話を耳にした。ろうそくを買いに行ったところ、どこの店もみな売り切れで、途方に暮れて歩いていた人、前から来た見知らぬ人が、ろうそくの箱を抱えている。「どこに売っていましたか」と尋ねると、「これはお店の最後の一箱だったのよ。だから分けてあげる」とその人は行ったのだという。「自分さえよければ」という風潮の時代に、こういう心の人がいて、その人と偶々出会うことができた。この出会いに、大きく励まされたと語られた。人間、捨てたものではないが、「希望」というものの本質を語る出来事であろう。「希望」は、こちらの予想に反して、思わぬ方向からもたらされる。まさに神の仕組まれる「みわざ」なのであろう