「神の顔を避けて」 創世記3章1~15節

「かくれんぼ」という遊びを知らない人はいないだろう。皆さんも小さい頃に、友だちと打ち興じた覚えがあるのではないか。「かくれんぼを通して、新たなコニュニケーションをデザインする活動を行なっています。あなたの街・職場でかくれんぼをしませんか?かくれんぼは老若男女を問わないコミュニケーションに一役買います」と詠い、ただの子どもの遊びとしてではなくて、その普遍的な価値認め、広く普及活動をしている(のだろう)「日本かくれんぼ協会」なる団体がある。そのHPには、「世界規模で年齢性別を問わず誰もが笑顔で楽しめる、参加型エンターテイメント、競技人口70億人」と標榜されている。

そのHPにかくれんぼの「起源」が記されている。「古く中国では宮廷内で行われていた『迷蔵』と呼ばれるかくれんぼに似た遊戯(儀式的だった可能性もある)が行われていたそうです。 そして日本には平安時代以前に伝わったと言われています。 最初は山に女性が隠れ、恋人の男性がそれを探しに行くという他愛もない遊びだったようです」。それに加えて、「広大な山を使っていたので遭難した人もいたよう」だというのだから、遊びも命がけである。ともあれ、子どもたちが「かくれんぼ」を楽しんだというのは、「隠れる」ことのスリルと、「見つけてもらえる」という安心感の両輪の上に、成り立っていたものだろう。あまり上手に隠れると、日暮れとなっても見つけられずに、そのまま放って置かれるそんな不安はなかったか。置き去りにされるなら、誰も「かくれんぼ」などしない。

前週に引き続いて、創世記の「創造の物語」から話をする。1章の記述が、成立年代的には最も新しい部分だ、と語った。2章4節以下には、もう一つ別の創造物語が記されるが、こちらの方は、創世記の記述の中で、最も古い伝承が用いられている部分である。世界の創造というよりは、「人間の創造」と呼ぶ方が、より内容にふさわしいだろう。最初の人、アダムとエバをめぐって、「エデンの園(楽園)」の物語と、それに続く「堕罪(楽園喪失)」の物語からなる一連の個所は、巷間でもよく知られた個所であろう。

昔話のような語り口調で、登場人物のやり取りや行動、会話も生き生きしており、直截的で、見事なドラマ的手法が用いられていると言えよう。神を描く際にも、非常に擬人的で、まるで人間と変わりなく、エデンの園を実際に歩いて、散歩を楽しまれていているような風情に描写されるのである。このような文体、記述の仕方は、ダビデ王の生涯を描く長大な物語と近いものがあるから、同時代に成立したとの見方がなされている。

あたかも時は、イスラエルの王国時代の初期、紀元前千年から900年の時期であろうと思われる。元々、聖書の民、イスラエル人あるいはヘブライ人と呼ばれる人々は、長らく自分たちの国をもたない「さすらいの民」として、古代メソポタミアのあちらこちら、身を寄せる所を転々としながら生きて来た。そのさすらいの民が、その時代に「統一王国」をパレスチナの地に建国することになる。今日のパレスチナ問題の発端ともなる出来事でもあった。もっとも、暴力や武力による侵略、征服というやり方では不可能で、やはり無理せず、非常に長い時間を費やし、場末の辺境の地域から徐々にじわりと浸透して行くような歩みの結果であったろう。やがて王国が形成され、ついに豊かさと繁栄の時代がもたらされる。これが2つ目の「創造物語」が記された背景である。

豊かさと繁栄の時代の到来が、イスラエルに何をもたらしたか、今日のテキストの告げるところである。4節「蛇は女に言った。『決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ』」。「神のように(なりたい)」という誘惑の時代が始まった、というのである。そして6節「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」。

イスラエルは、何よりただ「神の言葉」によって導かれ、方向付けられ、励まされて生きる者たちであった。しかし今や「神の言葉」よりも、「いかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなる」ものを求め、これを手に入れることを希求し、それを我が物として生きようとする誘惑の中に置かれたのである。とうてい手に入れられないものを、諦めるのと、すぐ目の前にあって、手を伸ばせば届くものを我慢するのに、どちらの方が強い忍耐が必要だろうか。現代は「手の届く」時代なのである。「女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」。誘惑に負け、人は神の言葉を捨てるのである。今まで守られて来た、大切に保護されて来たもの、「神の言葉」を、捨て去ったのである。かけがえのないものを、人間は喪って初めて分かるのであるが。

大切なものを喪って、そこで現れた事柄は何か、7節「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」。「豊かさ繁栄」とはいうものの、自分たちの王国を取り巻く周辺には、強大な力、軍事的にも経済的にも、領土的にも圧倒的な力を持つ列強、帝国、王国がひしめいている。国際から見れば、狭間に置かれた一介の新興国なのである。「裸で、いちじくの葉を綴り合せて腰に巻く」程度の力しか持たないのである。イスラエルは自分自身が、実は「裸」であることを知って、木の間に隠れるのである。8節「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れ」るのである。この記述は、まるで内緒で悪いことをした子どもが、後ろめたさに叱られるのを怖れて取る行動、そのままが描かれているようにも思える。

子育ての悩みに、しばしばこのような助言がされている。「どうして子どもは親に隠れていろいろとしたがるのでしょうか。「『○○をしたい!』という欲求を抑えられないのが主な原因ですが、親に見つからないように自分で考え、行動を起こすということは、自立心や自制心といった心の成長の表れでもあります。ですから基本的には、親に隠し事をしない子どもはいないものです」。このように、アダムとエバに象徴されるイスラエルは、今、そのような途上を歩んでいるのであるし、私たちもまたそのように歩んで来たし、人間の歩みというものは、すべからく一生の間、そのようであるのだろう。

罪を犯し、隠れる子どもに対して、「見て見ぬ振りをすること、頭ごなしに叱ることはやめてあげてほしい」としばしば助言される。9節「主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか』」。「あなたはどこにいるのか」、聖書の中で、この一句ほど、味わい深い、思いの深いみ言葉はないだろう。呼びかけているのは、他でもない「神」である。二人が何をしたのか、ましてや隠れている場所なぞ、先刻ご承知、お見通しである。それを知らぬふりをして、「どこにいるのか」、原文はもっと微妙で、「いないのだろうか、どこにいったのか」くらいの微妙なやさしい呼びかけである。「見て見ぬ振りをすること、頭ごなしに叱ることはやめてあげて」と現在の子育ての助言を彷彿とされるみ言葉であろう。

そして第二の創造物語の中心であるこの個所は、聖書全体を通して、語られる神の事柄でもある。普通、この世で語られるのは、真理であったり、永遠の生命であったり、幸福や幸運であったり、いわゆる「至高の宝」を、人間が探し求めるという物語である。紆余曲折、苦心惨憺の末、ようやく手に入れるか、と思う間もなく破れて行くという展開である。聖書は真逆のメッセージを告げる。人間を探すのは、神ご自身である。神にとって、「宝」とは、私たち人間のことである。「主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた」(申命記7章6節)というのである。ところが人間は、この神に背きみ言葉に従わず、「神の顔を避けて」園の木の間に身を隠すのである。

ある新聞コラムにこう記されていた。「『満(ま)よひ子の志(し)るべ』とは東京都中央区の一石橋にある石標で、江戸時代の迷子さがしのための情報交換板のようなものである。当時はそれほど迷子がよく出たらしい。迷子があれば親と近所の者が鉦(かね)と太鼓をたたいて捜し歩く。『迷子の迷子の○○やーい』。江戸川柳の<まよい子の親はしゃがれて礼を言ひ>。やっと、わが子を見つけだすことができたのだろう。一緒に捜してくれた人たちへの礼の言葉も、喜びで胸がつまってうまく出てこなかった。子を案じる親の心が伝わってくる。迷子さがしよりも状況は深刻である。イスラエルの攻撃が続くパレスチナ自治区のガザ。人びとの間でこんな奇妙な『習慣』が生まれているそうだ。親がわが子のおなかや足にその名を書き記しているという。体に名を書いておけば子どもの身になにが起きたとしても後で身元が特定できる。迷子防止というより最悪の場合を想定しての行為なのが悲しい。ガザでの死者は既に5千人を超えた」(10月25日付筆洗)。

「神は我らの救いのために人となり」と信仰告白が記すように、神は迷子の如く木の間に隠れた人を捜し求めるのに、ひとり子、主イエスをこの世に生まれさせ、私たちのところにお遣わしになった。「親がわが子のおなかや足にその名を書き記している」とは、子どもの命を心配し、いつも子どもの名を呼び続けようとする親心の表れだろう。主イエスは失われたひとりの子羊を、どこまでも探し求める方である。自分を十字架に付けた人々とも、最後まで共にあった方である。ひとりの人間を探し求める神がおられることを、今、

深く心に思い起こしたい。神が探されるのであるから。