祈祷会・聖書の学び 使徒言行録22章22~23章11節

『風が吹けば桶屋が儲かる』という諺言がある。あるささいな発端から、まったく関係のないように見える思わぬ事柄が生じてくる、という現象を言い表している。最近では「バタフライ効果」という言葉もよく口にされる。

とある市場調査のデータによれば、2020年にはコロナ禍による外出自粛が呼びかけられる中で、「小麦粉」や「ホイップクリーム」等、お菓子の材料の売上が大幅に増加したという。これは感染への恐れから外出を控え、自宅に籠らざるを得なかった家庭の人々が、家の中でできることをあれこれ思案し、親御さん、あるいは親と子で、家庭でのお菓子作りに取り組んだ結果によると分析されている。甘いものは人の心に喜びを与える、またお菓子の話題は、いろいろ会話に弾みをつける作用もあって、それで親子間のコミュニケーションを深める良い機会ともなったと記憶されている。コミュニケーションは円満な関係作りのための大切な要素だが、何か共にできる話題や事柄が必要なのである。「巣籠りとお菓子」がその役割を果たしたという次第である。

「巣籠り」を余儀なくされることは、不自由で、退屈でつまらないことだが、それでもこれまでできなかった、否、それまで必要に迫られなかったからやらなかったことを、せざるを得なくなったことで、思わぬ余得が生まれ出る、を知らされたように思う。そこで「コミュニケーション」という人間にとって最も大切な要素が育まれた、とは何という強いられた恵みであることか。それを普段、忘れて生きている鈍さも問題であるのだが。

今日の個所は、パウロの三回目の宣教旅行の帰結を伝える個所である。ここでの出来事によって、パウロの運命は大きく舵を切って、展開して行くことになる。宣教旅行の目的地、エルサレムに上って、エルサレム教会のヤコブ(主の兄弟)を訪ね、長老たちに会って挨拶をかわし、宣教活動報告を行った。彼の働きの実りについては、皆、好意的に受け止めたが、彼の律法に対する態度に反発した町のユダヤ人たちによって、神殿で暴動に巻き込まれることになる。擾乱の当事者として取り調べのために、ローマの兵営に連行される途中、境内でパウロは神殿内の人々に語りかけ、弁明を行ったのである。その次第が詳細に記されている。

パウロは、いつの頃からか、ローマの町での宣教を志したと思われる。一旗揚げようということではないにしても、当代随一のメガロポリスで文化の華ともいえる帝国の首都ローマに憧れる気持ちは、彼でなくても理解できる。過去3回に及ぶ宣教旅行は、徐々に行程を拡大し、遠方にまで足を延ばしていることは、やはりローマ行きを強く意識していると思われ、そのために情報の収集、準備をしていたことは間違いない。しかし中々、彼の希望とは裏腹に、ローマへの道が開かれることはなかったのである。

22章にはその弁明の内容が記されている。彼は自分の回心の経緯を詳らかに語るが、弁明の最後に、ステファノの殉教の際のことが言及されていることが興味深い。ステファノは、使徒たちの働きを助ける執事として選挙された、教会員から信任の篤かった人物であるが、同時に非情にラディカルな信仰的立場を持っていたと思われる。ユダヤ人たちの偏狭な姿勢に、歯に衣着せぬ批判を述べて、大方の怒りを買ってしまう。彼は教会の最初の殉教者となったが、そこに居合わせた、まだ年若いパウロにとって、この出来事は心に大きな刻印を押すこととなったのだろう。ステファノが皆から石を投げつけられて、殺害される光景を目撃していたのである。その時の状況を彼は次のように語る「あなたの証人ステファノの血が流されたとき、わたしもその場にいてそれに賛成し、彼を殺す者たちの上着の番もした」。パウロは、直接石は投げなかっただろうが、殉教者の最期を目の当たりにして、ユダヤ人としてのこれまでの生き方、人生の軌跡、実存が強く問い直されたのだろう。「俺は一体、今まで何をしてきたのだ」という具合に。主イエスの十字架への歩みの後ろ姿を見て、自分もまた自らの十字架を負って歩む人間の、真の信仰を突き付けられたのである。

彼の弁明は、自分に生じた出来事のすべてが、神の経綸(計画)によるものであることを強調する。とりわけエルサレム神殿で、神からの直接的な「啓示」を受けたという主張は、ユダヤ人たちへの過激な挑戦であったとも言える。自分のこれまでの振る舞いは「神のお墨付きだ」、これで人々の怒りは増幅され、事態はさらに紛糾したことは、当然である。暴動はますますひどい状態になったので、ローマ神殿警備隊の千人隊長はパウロを捕らえ兵営に連行し、拷問によって事情聴取を行おうとする。するとこれまた厄介な事情が絡むことが明らかとなった。パウロは「ローマの市民権」を持つ者であり、過去に帝国への貢献により、パウロの家柄は「生まれながらの市民」であった、というのである。

「ローマ市民」というこの厄介な当事者を、疎かな扱いはできない、とばかり神殿警備隊長は、パウロをユダヤの最高法院(サンヘドリン)に連れて行き、大祭司はじめ神殿当局者との審問を受けさせることになったが、ここでも一言居士のこの厄介者は、おなじみの「死者の復活」を滔々と論じ立てるものだから、議場にいたサドカイ派とファリサイ派の間で、大論争が生じてしまったのである。復活を巡ってこの両者は相いれない考え方を抱いていたから、余りの論争の激しさに、この「生まれながらのローマ市民」に重大な危害が生じることを恐れて、隊長は彼を兵営に連れて行くことを命じ、彼は辛くも危機から逃れる。そしてこの事件は、神殿の過激派によってパウロの暗殺が画策され、それを密告により事前に察知した隊長は、もはや彼を自分の所に留め得ず、総督フェリクスのもとに送致することを決定する。これが後にパウロの運命をローマへと向かわせるきっかけとなるのである。

但し、エルサレムばかりでなくこれまで第三回目の宣教旅行中、どこに町にあっても、彼は宣教の言葉を巡って人々と厄介ごとを繰り返し、しばしば擾乱罪のかどで官憲に捕らえられている。その挙句に、エルサレム神殿での暴動である。もう少しパウロは、控えめな態度やふるまい、穏やかな弁論をすれば、こんな大事には至らなかっただろうとも思うが、人間的に見れば、彼の負の資質によってローマへの道が開かれるのである。彼はかねがね当時の世界の中心地、ローマに行くことを切望していたが、中々その機会に恵まれなかったのである。そしてこのエルサレムでの暴動によって、そこへの道が開かれるとは、神の計画の深さ、意外さであるだろう。その夜、主は彼に語られたという「勇気を出せ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも証しをしなければならない。」

パウロの「ローマ行き」の経緯の背景は、ひとつ一つを取ってみれば、ささやかなジグソーパズルの一片に見える。ところがそのパズルが完成した時、そこに描き出されている全体像の何と見事なことか、と思わされる。パウロ自身も同じ感慨をもって、自分の身に生じた出来事を振り返ったのではないか