祈祷会・聖書の学び 列王記下18章13~25節

「想像してごらん 国なんて無い/そんなに難しくないだろう/殺す理由も死ぬ理由も無く/そして宗教も無い/さあ想像してごらん みんなが/ただ平和に生きていることを/君は僕のことを夢想家だと言うかもしれない/でも僕一人じゃないはず」、ジョン・レノンが歌った“Imagine”の一節である。

2000年9月11日にニューヨークで起こった「同時多発テロ」、当時、その出来事をかの地で目撃した坂本龍一氏は、「事件の後、街から歌が消えた」と消息を伝えた。余りに大き過ぎる悲嘆は、「歌」すらも奪うものなのか、氏はそのことを深く問い、その悲惨の中で、音楽は何ができるのか、と自問するのである。そして、その時、世界の人々にあまねく知られ、懐かしく口ずさまれたこの曲が、歌うことを禁じられた、というのである。歌詞の「夢想家」という言葉に象徴されているように、突然の理不尽な「テロ」にただただ屈するかのような、弱々しい、反撃への士気を挫く主張だと見なされたということである。

「世界は私たちを非現実的な夢想家と笑いあざけるかもしれない。しかし、百年後には私たちは予言者と呼ばれますよ」。この国の敗戦後、マッカーサー司令官がその回想録で、憲法の「戦争放棄条項」を「提案」した幣原喜重郎首相の言葉として紹介している。この発言の背景について、さまざまな議論や憶測が語られているが、ここでも「夢想家」という象徴的な言葉が、批判として投げかけられていたことが理解されるだろう。「平和」の構築について、人は昔から現在に至るまで、この用語によって最も本質的な事柄を嘲笑って来た節がある。

紀元前722年、分裂したイスラエルの北王国エフライムは、メソポタミアの覇を競っていたアッシリア帝国によってあえなく滅ぼされた。北王国はシリアと手を組み、南王国ユダをも連合に巻き込もうとする戦略で、大帝国に対抗しようとしたが、ユダ王国はこの動きに与せず、かえってアッシリアと手を結ぶことで存命を計ろうとした。それによって、ユダはかろうじて首の皮一枚でつながり、王国はひとまず滅亡の危機を逃れることを得た。ところが「アッシリアの王はユダの王ヒゼキヤに銀三百キカルと金三十キカルを課した。ヒゼキヤは主の神殿と王宮の宝物庫にあったすべての銀を贈った。またこのときユダの王であるヒゼキヤは、自分が金で覆った主の神殿の扉と柱を切り取り、アッシリアの王に贈った」と記されるように、多大な貢の金と、屈辱との引き換えによって得た、一時の安寧だったのである。ユダ王国は滅亡こそ免れたものの、その払う代償は大きかった。

メソポタミアの覇者アッシリアの圧迫と恫喝はすさまじく、大軍と共に広報官ラブ・シャケをエルサレムに遣わしてこのように脅迫したというのである。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王はこう言われる。なぜこんな頼りないものに頼っているのか。ただ舌先だけの言葉が戦略であり戦力であると言うのか。今お前は誰を頼みにしてわたしに刃向かうのか」。ラブ・シャケは語学に秀でた有能な官僚だったらしく、大声を上げてユダの公用語であるヘブライ語でまくし立てたらしい。敵の恫喝が、掛け値なしに上から下の者たちに至るまで、つつぬけになるのである。ヒゼキヤ王は素より官邸の人々は青くなって恐れ慄くのである。さらにアッシリアの広報官は言葉を続ける「今わが主君、アッシリアの王とかけをせよ。もしお前の方でそれだけの乗り手を準備できるなら、こちらから二千頭の馬を与えよう。戦車について、騎兵についてエジプトなどを頼みにしているお前に、どうしてわが主君の家臣のうちの最も小さい総督の一人すら追い返すことができようか」。

広報官ラブ・シャケは、自国の圧倒的な軍事力の差を見せつけることで、相手を威嚇する。そればかりでなく、イスラエルの伝統的なアイデンティティとも言うべき「神の言葉への信」を徹底的に貶めることによって、ユダの気勢を挫こうとするのである。「お前たちがよって頼む神の言葉なぞ、ただの口先だけのものではないか、我々の強大な軍事力を前にして、何の戦略、戦力となるか」。

多くの軍事大国と呼ばれる国々は、自らの兵器を衆目の前に引き出し、その軍事力の大きさを誇示しようとしてパレードを繰り広げる。紀元前の遥か大昔の時代に、列強が競って行っていたことを、性懲りもなく現在も繰り返し行っているのである。それで周囲の国を睥睨し、相手をねじ伏せ、優位に立てるかの如きである。

ラブ・シャケのしたたかさは、そのメッセージにおいて、イスラエルの最も痛い部分をついているところにある。「わたしは今、主とかかわりなくこの所を滅ぼしに来たのだろうか。主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになったのだ。」お前たちの神が、お前たちを滅ぼすためにと我々を遣わしている。この言葉は、イスラエルの人々に大きな絶望の念を生じさせたであろうことは、想像に難くない。痩せても枯れてもイスラエルは、神の選民なのである。たとえ神の戒めに従わず、罪を犯し続ける人々であったとしても、その選びは、人間の側からのものではなく、神の一方的な恵みの選びによるのである。ただ神がイスラエルに憐れみを注がれ、奴隷の国から導き出され、乳と蜜の流れる約束の地に連れて来られたのである。そこにあるのは、自分たちの強さや強大さではなく、神の憐れみなのである。それがある限り、イスラエルはどのようであったとしても、立つことを得るのであるが、もし、神が見放すならば、聖書の民の未来は、全く閉ざされるのである。このしたたかなアッシリアの広報官は、イスラエルの最も弱いところ、脆弱に見える部分を揺るがそうと図るのである。

聖書の民にとって、頼るべきものは、目に見えない「神の言葉」なのである。「信」がなければ、これほど弱く見えるものはないだろう。何せ、武器ならばいくらでも人の目を圧倒できるように積み上げることができるからである。しかし神の言葉は、そうではない。目に見えないことで無力に映るかもしれない。しかしこと武力は、常に力を競い、相手以上の強さを保持していなければ、空しいのである。現在もまた、こうした力の競合の渦中に、国々の運命が置かれている。武力の競り合いは、いつ果てるともない泥沼の中に落ちこんでいく。そうした中で、真実に人間を守り生かすものは何かが、問われるであろう。

「僕たちの上には ただ空があるだけ/さあ想像してごらん みんなが/ただ今を生きているって」。