「世の終わりまで」マタイによる福音書28章16~20節

昔、「TPO」の大切さを教えられた。即ち「時と場所と状況」をよく考えて、それにふさわしく行動しなさい、というマナーのことである。確かにそれらが十分に意識されているなら、大きな逸脱にはならないだろう。ではこういう「場所」は。どんな状況にふさわしいところだろうか。(1)明るい時間帯の公共の場であること、(2)その後は別々に帰れること、(3)知り合いに会う可能性が低いこと、(4)話し合いができるくらい静かであること、(5)長居できる場所であること、(6)お酒や食べ物を注文しなくても良いこと。

これは「別れ話をするのにふさわしい場所」とネット検索すると出て来る情報である。確かに人間の生きている現実には、さまざまな状況が起って来るから、機械のようにいつでも同じ対応、やり取り、受け応えはできないであろう。特に、きつい、シビアな案件をどうにかしようとする場合、やはりそれ相応のふさわしいTPOというものがあるだろう。そして「別れ、別離」という時は、その最たるものではないか。

4月当初に入園、入学した小さい子どもたちは、初めての親との別離を経験し、悲しみと不安の中で泣きながら、「ひとり」であることの人生経験を積み、より広い世界へと歩みを進めて行ったことであろう。別離を通して新しい成長が育まれる訳である。親と子を隔てる幼稚園の門の冷たい鉄扉は、まさに「別離」の象徴とも言える小道具なのではないか。

聖書は「関係」の書物である。様々な人と人(年齢、性別、国籍、人種)との繋がり、やり取り、駆け引きといった「関係」が物語られている。しかし聖書の聖書たるゆえんは、人間関係ばかりでなく、人と神、あるいは人間とキリストとの繋がり、関係が記されていることである。人間は関係性の生き物であるが、その「関係」とはただ目に見えるもの、人、動物、自然との関わりだけでなく、目に見えないものとの関係であることが、強く示唆されているのである。「関係」をただ人間相互だけのもの、と理解することがどれ程、人生を薄っぺらなものにしているだろうか。

今日のテキストは、マタイ福音書の終結部、「主イエスの昇天」を語るテキストである。マタイはルカのようにはっきりと「主の昇天」の姿を描いてはいないが、「山に登る」という舞台設定そのものが、弟子たちと別れ告げて昇天されて行く前提として、その有様がおのずと目に浮かんでくるであろう。これは復活の主と弟子たちの別れの場面なのである。即ち、目に見える姿では、主イエスは弟子たちとはっきりと別れを告げられた、ということである。聖書において「別離」が語られる場面は数多い、そしてそのどれもが非常に印象的な記述となっている。やはり「別離」という事柄は、単に「関係」の破綻や終焉という意味だけではなくて、もっと豊かで多彩な要素があること、そこから始まる新しい歩みの緒と聖書は考えているのである。

「主との別れ」にあたって17節「(弟子たちは)イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」と記されている。「ひれ伏し」という振る舞いは、しばしば「別離」の場面に語られる身体表現である。別れに際して「おんおん泣いて」いるから、下を向いてひれ伏すのである。ところがその場面において「疑う者もいた」とサラっと記されていることに注意したい。皆さんは、この記述を否定的な言辞と受け取られるだろうか。「この場に及んでもなおも煮え切らない態度だ」と感じられるか。「疑う」ことへの厳しい叱責がここにはあるのか。この記述は、非常にあたりまえ、当然のことのように記されているのである。「疑う者がいて、あたりまえ」というニュアンスである。

近頃こんな文章を読んだ「誰かに期待するのはもうやめよう。それはすごく冷たい発言だと誰かは言う。正義感と責任感からか、周囲に対して『なんでこの人は分かってくれないのだろう』『なんでこの人はこんなことをするのだろう』と怒りやショックを感じ、対人で傷つくことが多かった10代の私は、自身で勝手に相手への理想や期待という刀を振りかざした結果の自業自得だとは気付いていなかった。私たちは皆、違う親から生まれ、違うものを食べ、違うものを見聞きし、違う脳と体で考え移動する。親子だろうが夫婦だろうが、たとえそれがクローンだろうが私たちは皆『違う生き物』としてこの世に生まれる。こんなにも当たり前のことなのに、共感や同調という感覚がそこら中に落っこちている、この社会にいると、いつしか私たちは同じ脳を持ち、同じ言葉を使い、同じ思いを感じ、当たり前に分かり合えるのだと誤信する」(5月6日付「南風」岩倉千花)。

冷めた見方、冷たい発言だと思うか。しかし今日のマタイの記述も、それがちゃんと意識されているといったらどうか。「疑う者」について、主イエスは殊更、とがめだても、批判もされていない。ただここから、即ち主イエスとの「別離」から始まろうとする、これからの歩みについて、主は語るのみである。主は弟子たちにこう命じられる。19節「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」、この文章は面白い。4つの指示が語られている。「行って」「弟子に」「洗礼を授け」「教え」、ところがこの中で、純粋な命令形なのはひとつだけである。あとは皆、分詞形なのである、つまり「何々しながら」と訳すべき従属節のような付加的文章である。どれが命令形なのか。それは「弟子としなさい」だけである。何となればこう訳すことができる。「あなたがたはすべての人々を弟子にしなさい。歩みつつ、洗礼を授けつつ、教えつつ」。教会の働きの実際を、短くみごとにまとめ上げていると言っても過言ではないだろう。

主イエスは「弟子としなさい」と言われる。これが唯一の命令なのだが、「弟子」と訳されているこの言葉は、もともとギリシャ語の“apostolos”という用語であり、「使者、使節」のことで、文字通り「送り出された人」を意味している。これは、“apo”「離れて、別離」+ “stel”「置く、立つ、整理する」(立っている物や場所を指す)という複合語であるから、「離れたところに立って、受け取ったものを置く、届ける」という意味の言葉である。ここにマタイの語る「伝道」とか「宣教」の意味合いが、端的に示されていると言えるだろう。目に見える主から離れて、自分が受け取ったものを遠くに持ち運んで、それを届ける働きのことである。これから出会うだろう見ず知らずの誰かと、その受け取ったものを通して、何某かの交わりが生まれるだろう。もちろん常に共感や共鳴、思いをひとつにという具合にはいかないだろう。しかし、主イエスのみ言葉がその中心であるから、それを巡って、さまざまな動きや出来事が生まれてくるであろう。自分には予期しないことであるかもしれないが。

先に紹介した文章はこう続けられる。「いつの日からか、私はこの違う生き物に対する理想や期待を意図してしないようになった。自分にとっての丸は相手にとっての三角かもしれない。会話はあくまで自分と目の前にいる人のギャップを埋める作業であり、百パーセント伝わることなんてない。そう思うと、不思議なことに今まで不満に感じていた相手の言動に対して何も感じなくなったり、むしろ理解が深まったその瞬間がミラクルに感じ相手の存在に感謝の情まで抱くようになったりした。人に期待することをやめてから、私はもっと人が好きになった気がする。分かり合えない、伝わらないのも当たり前。期待や理想を押し付けず、違いの上にいるからこその会話を重ね、分かり合いの奇跡を楽しみ『違う生き物同士』共に気楽に交差していこう。誰かに期待するのはもうやめよう。これはすごく温かい勇気だと私は思う」。

17節「イエスに会い、ひれ伏した、しかし、疑う者もいた」とマタイは伝えている。正直な告白である。イエスの群れに、教会の群れの中に、「信じない者、疑う者、迷う者、揺れ動く者」がいた、ときちんと語るのである。確かに教会の招かれる人々は、多種多様、さまざまな立場、運命、境遇の下にある人々である。それは、招きの主、イエスが呼びかけられた故なのである。その招きのただ中に「疑う者がいる」、それもまた「弟子」たるゆえん、主イエスはそれを咎めずに、許しておられる。その間を揺れ動きつつ、教会は歩んでいくのである。つまり「ひとり残らず確信に満ちて」、「誰も信じて疑わず」、「皆が例外なしに」という中で、新しい世界、未来が開かれて来るのではない、ということである。そして見える主との別離によって、教会の歩みが始められたことに、思いを馳せたい。次週はその教会の誕生を記念する「ペンテコステ(聖霊降臨日)」である。