「その実を示し」 コリントの信徒へ手紙二6章1~10節

 

 中国地方の1地方紙に、次のような記事が掲載されていた。「井戸端の力」2018/7/13. 尾道市には、古い町並みに井戸がたくさん残っている。井戸水の提供にご協力を―。今回の豪雨で水道が使えず、給水所頼みの不便な生活を強いられる中、こうした呼び掛けが続いている。お寺や民家の庭、路地裏…。忘れられたようにたたずんでいた手押しポンプや、つるべに再び光が当たった。中には江戸時代のものも。「ご自由にお使いください」「飲めませんがトイレにつかえます」。所有者の申し出に、困り果てていた市民がポリタンクを持って駆け込んでくる。水を分ける人、それで助けられる人。井戸端では感謝の言葉のやりとりもうまれることだろう。ご近所同士のつながりを、あらためて心強く感じた人もいるのではないか。訪れた人が得るのは、きっと水だけではないはず。
平成に入って、最も大きな水害の被害が生じた。突如濁流が襲い、すべてを飲み込み押し流していった。足元まで上ってきた、そのわずか数十分後には、水は2階まで膨れ上がったという。自然にほとばしる水の持つ力の脅威、凶刃に例えてもいい、今も人はひとたまりもない。被災して、かけがえのない、大切なものを奪われた方々の悲しみを思い、慰めを祈りたい。教団の社会委員会からも、緊急の救援募金の要請がきたが、これから、徐々に現場の教会の状況が伝えられてくることだろう。
水は災害の時には、大きな脅威となる。しかしその恐るべき力を持つ水が無ければ、人は生きられず、生活も成り立たない。新聞記事でも語られているように、水道が完備され、ひねるとジャー式に、苦も無く水を手に入れられる生活が、当たり前になっているこの時代、もうとっくの昔に御用済み、捨てられて、忘れ去られたような井戸が、人の命を支える役割を今、担っている。
「石作りに捨てられた石が、隅のかしら石になる」という聖書の言い伝えが、時も場所も、遥か離れたこの国にも、その通り当てはまる。洪水が起こると、回り中に水はあるのに、水が不足する。きれいで安全な水がなくなるのである。そこで井戸の出番だが、井戸は水道よりも便利ではない。つるべを投げ込んで水を汲み、てこを何度も動かして、重い水を引き上げなければならない。手に入れるのに、決して楽は出来ないが、苦労して手に入れるから、その真価も味わうことが出来る。そして普段、目に見えぬ地面の底に、昔も今も、命を守り、支える水は、しっかりと蓄えられている。わたしたちがそれを知らないだけである。見過ごしているだけである。恵みというものはそういうものかもしれない。

今日はコリント後書6章から話をする。よく知られたみ言葉が記されている。2節「引用」。これはイザヤ書49章8節からの引用である。このイザヤの言葉が語られた時代、聖書の民ユダヤ人は、異国の地バビロンで捕囚の憂き目を見ている。何代にも渡って汗と涙で先祖が築き上げ、一つ一つの石を積み、形作ってきた祖国ユダは、戦乱によって破壊され、麗しい神殿は灰燼と帰した。彼らは故郷を追われ、今、異国バビロンでよそ者として、それでも生計を整え、何とか糊口をしのいでいる。そうした人々の嘆きの肉声が、ここには記され、今に伝えられている。4節にこういう言葉がある。「わたしはいたづらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした」。即ち「わたしがやってきたことは一体、何だったのか、ただただ忙しく動き回り、がんばり、力を使い果たしただけではないのか。それがどんな実を結んだと言うのか。わたしは何を残したのだろう」。2500年以上前の古代人のつぶやいた言葉であるが、何と今の私達の言葉と、重なっていることか。
ここでパウロもまた、同じ心で、古の預言者が語った言葉を聞いたのだろう。しかし聊か言葉を乱発しすぎている嫌いがある。言葉の人パウロは、自分の持つ語彙の豊かさをこれでもかと開陳してみせる悪癖がある。今日の個所でも、自分の今、抱える困難、苦しみを、ありたけの言葉で表現して見せている。

主イエスも言われたではないか。「言葉数が多ければ聞き入れてもらえると思っている」。かつて私も、祈祷会が諭されたことがある。「先生が全部祈ってしまうと、私の祈ることがなくなります」。言葉は多すぎても、少なすぎてもいけない。丁度良い、という頃合がある。しかし、それをきちんとわきまえることが、一番に難しい。となれば、むしろ少ないほうが、無難なのかもしれない。それでも言葉は必要なのである。
パウロが嫌いだと言う人は、こういう饒舌な面に、聊かカチンと来るようだ。自分の苦労を大仰にして、売り物にしてはいけない。しかし言い方はどうあれ、そこで言おうとしている事柄自体は、しっかりと聞きとらねばならないだろう。誰が言ったから聞く、誰が言ったから聞かない、ではなく、私達は、事柄そのもので物事を判断する必要がある。子供が言ったことでも、正しいことは正しいのである。偉い政治家が言ったことでも、間違いは間違いなのである。

5節「引用」、パウロの宣教の中で生じた諸々の状況である。さらに8節以下、ここには翻訳の問題がある。文語訳以来の訳し方で「~のようでいて~である」という構文。こう訳すと「見かけはよくないが、中身は別物」と理解されてしまう。直訳すればこうなる。「嘘つきにして正直者、無視されるが、興味を持たれ、死につつあり、見よ、生きている。痛みつけられ殺されず、嘆いていて喜び、物乞いにしてお大尽、無一物にして、無尽蔵」。真逆の正反対の言葉が、いくつもくっつけられている。確かに困難で悲しむべき状況が、周りを取り囲み、展開している。しかしその絶望や困難に、人生のすべてが塗りつぶされない事柄もまた、表れているのである。それが「嘘つきにして正直者、無視され興味を持たれ、死につつあり、見よ、生きている。痛みつけられ殺されず、嘆いているが喜び、物乞いにしてお大尽、無一物、無尽蔵」。それこそが4節「引用」の内実なのである。
「あらゆる場合に、神に仕える者として、その実を示しています」。私訳「どのような中でも、神に仕える者には、あらわされる事柄があるのです」。自分で自分の実力を示すとか、自分の正しさを証明する、というのではない。キリストを信じて生きるときに、嘘つきとよばれ、無視され、死んだも同然と思われ、痛めつけられ、物乞いと呼ばれる。しかしそこに、それで終わらないキリストの復活の命が表れる、というのである。人生の賞賛、批判、非難、良い悪いあらゆる評判、評価の中で、いかなる時も、キリストは復活の命を表してくださる、しかも私の如何にかかわらず、というのである。

先の新聞記事はこう締めくくられている。避難所や給水所もかつての井戸端会議の場に変わりつつある。「お互い大変ですね」、「気を付けて」、ちょっとした言葉のやり取りが、心に少しの安らぎと、明日を向く力をくれる。
パウロは「今や、恵みの時、今こそ救いの日」と語る。神の恵みはあなたの人生のずっと先にあるのではない。あなたの足元に、困難、悲しみ、嘆きの足元に、ちゃんと備えられている、というのである。