「標語」というものがある。別名「モットー」とか「スローガン」とも言われる。会社や学校、組織の目標や方向が示される。「ぜいたくは敵だ」という標語は、戦時中のよく知られた「標語」である。なぜ有名かと言えば、これに一文字加えた人がいたのである。「ぜいたくは素敵だ」。当時の人々の心が偲ばれる。以前、東北の道路を走っていたら、手書きの交通標語が掲げられていた。
「真理はあなたがたを自由にする」というみ言葉は、この国のある場所に掲げられていることで、夙に有名である。その場所とはどこか、お分かりか。教会や大学、あるいはキリスト教の施設ではない。それは「国立国会図書館」である。昭和23年(1948年)起案された国立国会図書館法の前文には、法案の起案に参画した歴史家で、当時の参議院図書館運営委員長であった羽仁五郎氏が、ドイツ留学中にフライブルグ大学図書館で目にした銘文をもとに、「国立国会図書館は、真理がわれらを自由にするという確信に立って、憲法の誓約する日本の民主化と世界平和とに寄与することを使命として、ここに設立される。」と記されている、このフライブルグ大学図書館の銘文は新約聖書・ヨハネによる福音書の一文「Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ(ヘー アレセイア エレウセローセイ ヒュマース)」に由来する。前文では「真理は我々を自由にする」となっているが、ギリシャ語の方は、ヨハネの原文通り「あなたがたを」と刻まれているのである。
確かに聊か格好の良い「標語」とも言えるし、敗戦後のこの国の方向を指し示すものであろう。「真理」は、万巻の書を収める図書館に、最もふさわしい言葉であろうし、「国会」という場にとっても、ついの目指す方向であるだろう。少なくとも汚く心ないヤジは、真理ではないだろう。
ヨハネ福音書は、この「真理アレセイア」という言葉が、重要なキーワードのひとつなのだが、この個所と、そして最後、主イエスとピラトが問答を行う場面で、非常に印象的効果的に用いられている。問答では、このようにやり取りされる。よく世に知られた有名な個所でもある。主イエスは言われる、「わたしは真理について証しするために生まれ、この世に来た。真理につながる人は皆、わたしの声を聞く」。するとピラトは短く言う「真理とは何か(ティ エスティン アレセイア)」。このピラトの問いをどのように聞くだろうか。彼、ローマ帝国の総督、つまり皇帝の名代であるこの人は、真理を求めているのか、それとも無関心であるのか、どうだろうか。
普通、「真理」という言葉から連想されることは、哲学や思想の世界の中での、小難しい議論か、あるい数字が羅列した科学的法則のことが頭をよぎる。「宗教的真理」などと言われると「悟りを開く」という感じである。ギリシア語の「真理」、「アレセイア ἀλήθεια」は、否定の接頭辞「ア ἀ」と、「隠れる」を意味する「レソー λήθω」の組み合わせからできている言葉で、もともとは「隠れることのない」という意味である。
真理とは隠されているようであっても、どこかにしっかりと姿を現している。また人間が隠そうとしても、自ずと現れるもので、覆い隠しておくことはできない。真理・真実には、隠し立てする必要がないという感覚、自分の弱点や欠点があっても、敢えてそれらを覆い隠すことなしに、とらわれずに生きている、大らかな状態と言えるのではなかろうか。
ばれたら立場を失うから、公になったらまずいものは、すぐに消去して、ないことにする、そして知らぬ存ぜぬを通す、これは「真理」と真逆な状態を表している。
こうアレセイアの語源から読み解くと、「真理」とは、決して小難しい、日常をかけ離れた観念的な、思弁的な対象では ないことが分かって来る。真理とは人が、大らかにまっとうに、気楽に、堂々と生きられる、「生き方」のことなのである。だからギリシャ人もユダヤ人も、皆がこだわった事柄なのである。
さて「真理はあなたがたに自由を与える」と主イエスは言われた。私たちにとって、「真理」とは、最もおおざっぱに言うなら、「神」あるいは「神のはたらき」あるいは「神のことば」のことである。それは、私たちに「自由」を与える、というのである。この言葉は奴隷から解放するというときに使う言葉である。「解放」と訳した方が適切かもしれない。だから「あなたがたを自由にする」という主イエスの言葉を聞いたユダヤ人たちは「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。」(33節)
と答えているのである。自分たちは奴隷ではないのに、なんでいまさら自由にされないといけないのかと、いうプライドを傷つけられたという思いがある訳である。
この「自由」という考え方を、旧約聖書はもっとそれらしくのびのびした言葉を用いて語るのである。詩31編8節以下のみ言葉に、良く表れている。「慈しみをいただいて、わたしは喜び躍ります。あなたはわたしの苦しみを御覧になり/わたしの魂の悩みを知ってくださいました。わたしを敵の手に渡すことなくわたしの足を/広い所に立たせてくださいました」。この章句は全体で、「自由」の考え方を表している。特に「広い所に立たせてくださった」と訳されている部分がそうである。
原語で「ラーハヴ」(רָחַב)の元々の意味は、「広くする、広げる、大きくする」という意味である。詩編にはたびたび登場する用語で、詩119編32節では「心を広くしてくださる」とある。因みに旧約全体で25回、詩編では6回使われている。また「悩み」という用語は「ツァル」(צַר)は本来、「狭い」という言葉であるが、そこから「逆境の時」、「窮地に陥った時」という意味にもなる。苦しみのときに、ゆとりが与えられる、狭いところが広くされる、窮地にゆとりがもたらされるという恵みがここで語られている。
つまり「自由」、即ち神の救いのはたらきとは、狭い場所から広々した場所に、連れ出される、ということである。冬の間、狭い牢獄のような檻の中に閉じ込められていた家畜が、春の訪れとともに、畜舎の門が開かれて、羊飼いによって、外に連れ出される。春の日差しの中で、広々したところで、喜びにあふれぴょんぴょん飛び跳ねる、その様を「自由」という言葉で言い表したのである。「悩み」や「逆境」とは「狭さ」であり、狭い中に閉じ込められることである。そして神の救いとは、広々した場所に連れ出されることである。
もし苦しみの中でも、「狭さ」に閉じ込められていないとするなら、それは、神の救いがそこに現わされ、現実になっているということである。そしてたとえ鎖に縛られておらず、牢に閉じ込められていないとしても、自由自在に何でもできるとしても、あなたの心が内向きに、自分だけがファーストだとするなら、つまり「狭く」されているなら、それは「囚人」なのである。「真理はあなたがたを自由にする」、神はわたしたちを広々とした場所に連れ出す。
こういうエッセーを読んだ。学生のころ、年上で同級生の亨平と基地のフェスティバルに行った。亨平は優しい。でも、強面で身体がでっかくてハーレーダビッドソンに乗っていた。その後ろに乗ってガルンガルン大きな音を出して行った。はじめて入った基地は、どこまでも基地で、風が吹いていた。
昔行ったフェスティバルの詳細はもう忘れてしまった。きっと大きいハンバーガーを食べて、コーラを飲んだりしたと思う。覚えているのは、米兵手作りの巨大迷路に入ったことだ。1人ずつでトライする。ダンボールと角材でつくられた迷路は相当大掛かりで、2メートル近い壁の向こうは見渡せない。入ってから出るまで、15分程かかっただろうか。私がゴールしてすぐ、あとから入った亨平が出てきた。「おお、早かったね、結構難しかったね」と言ったら、「そうだな」と言った。それから亨平は、「お前何枚破った?」と聞いてきた。「え、破らないよ?」と言ったら、「は、破らないと進めないだろ」と言う。亨平は、迷路は壁を破って進むものだと思っていた。(上田真弓 俳優、演出家)
「巨大迷路の壁を破って通り抜ける」、というのはいささか乱暴だが、痛快な話である。私たちは壁があれば、その壁にそって、何とか抜け道を見い出そうと、あっち行ったりこっちに言ったりするものだ。壁は破れない、破ってはいけない、と無意識に考えるからかもしれない。回り道は決して無駄ではない。それによってしか味わえない事柄もたくさんある。しかし他方、壁を仕方ないもの、しようがない物、立ちふさがってどうにもならない、と思い込んでいるところがあるのではないか。
神はわたしたちを狭い場所から解き放ち、広々とした場所に導かれる。偏見、差別、内向き、失望、敵意、憎悪、人間は様々な「罪の壁」を作る。それが「安心、安全」と勘違いし、人と人とを、人と神とを隔てる壁を、作り続ける。いつの間にかその壁は、高く、長く、太く、越えられず、壊すことが出来ないと共われるほどになる。しかし万里の長城、ベルリンの壁をはじめ「すべての壁」は崩されるのである。神は壁を崩される。「真理はあなたがたに自由を与える」「神は、わたしたちを、広々としたところに立たせてくださいました」。