「愛」の反対語は、「憎しみ」ではなく「無関心」と言ったのは、故マザー・テレサ。それでは「ありがとう」の反対語は何か、「あたりまえ」。「ありがとう」は「めったにない」「めずらしい」を意味する「有り難し」という言葉が語源であると言われる。
さてこういう詩がある。「小学校の正門の前を通り抜けると/小さな女の子が指切りをしながら/歩いていた/少し行くと/いつも出会う鉄道隊の隊列と出会った/カンナが真紅にもえ/ひまわりが太陽にむいて咲き盛り/ネコがのんびりとあくびして/乳のみ子を背負った女が/忙しそうにすれ違っていった/そして八時十五分/人の街は/瓦礫(がれき)と壊れた人間の/重なり転がる炎の街となった」(吉岡満子「原爆の日」から)
私たちの毎日、日常というものが、どれほど「有難い」ものか。そしてその「有難さ」をどれほど「当たり前」と思い込んでしまっているかを、思い起こさせる。75年前のこの国の人間たちも、そして75年後の今の私たちも。「そんなのは一国平和主義だ、平和ボケだ」と批判する人もいるだろうが、この75年間、ともかくもこの国が、戦争を起こさず、この国が戦場にならずに済んできたのは、決して「当たり前」のことではない。その「有難さ」を支えたものが何であるかを、静かに、落ち着いて思いめぐらしたい。今年は、世界のあらゆる国の人間が、「いつもの日常が失われる」経験をしている。それも核爆弾ではなく、「目に見えない」小さなウイルスによって、なのである。「有難さ」を支えるものが何であろうか。
今日はローマの信徒への手紙7章からお話をする。ローマ書は主に、神の救いが、「信仰のみ」によることを強く主張する手紙である。律法のわざ、行いを通して救われるのではないことを、パウロはことあるごとに、語るのである。パウロ神学の中心でもある。それはおそらく、人一倍、律法を守ることに熱心で、誰にも負けない程、真面目に、真剣に律法を遵守してきたことの裏返しでもあるだろう。人間はしばしば生きる姿勢を、真逆にひっくり返すことがある。律法至上主義者であった彼が、「しかし今は、自分を縛っていた律法に対して死んだものとなり、律法から解放されている」(6節)と語るのである。人間は変わる。
ここでパウロは、律法からの解放を、「結婚の比喩」によって、説明しようとする。結婚とはつくづく不思議なものだ。カトリック教会では、「洗礼や聖餐」に準じる「秘跡(神のミステリ)」として位置付けられている。別々の環境や生い立ち、異なる家庭や家族、地域、国に住む他人同士が、なぜか一つ家で、共に生きる者となる。その出会いは、偶然の風まかせのようであるが、その縁には、実に不思議なめぐり合わせがある、即ち、主イエスが評したように、二人は「神が合わせられた者」なのである。さらに長年連れ添って来た伴侶を、「空気のよう」と表現する向きがある。「存在感がない」「あって当たり前」という相手に失礼な物言いなのだが、それでも「なければ生きていけない」、欠くべからざる存在という意味でもあるだろう。
パウロにとっては、実に「律法」とは、自分が連れ添う伴侶の如くだった、というのはその通りのことだったろう。「律法」にふさわしく、「律法」の名に恥じないように、「律法」を決して違えないで、裏切らないで、という心で生きて来たのである。パウロ程熱烈ではないにせよ、ユダヤ教から改宗してキリスト者になった人々は、少なからずいたから、そういう人にとっても、「律法」に対しては独特の思い入れはあったのではないか。例えれば「故郷への郷愁」のようなものである。やはり人間の心は、基本的には保守的なのだろう。今までと同じこと、当たり前なことをそのまま引きずって、ずっと繰り返し、反復してゆく。その日常がずっと続くと思っている。それで安心し、平安を得る。「結婚」の本質には、そのような面があるのではないか。
ただパウロの用いる比喩は、時折、とんでもなく破綻した論理が語られる。ここでも、結婚は、連れ添って来た相手が亡くなれば、それでお終いだ、と主張されるのである。2節「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば解放されるのです」。パウロは生涯、独身であったと伝えられる。おそらく、終末が間近いと考えられた時代において、人間的な決まりごとや制度に、あれこれ心配り、気配りしていると、余計な心配ばかりして、肝心なこと、キリストに集中することへの妨げになるから、身軽な「今のまま」がいい、というポリシーを持っていたからだろう。ただ、「結婚」を「死ねば解放(自由)」とあからさまに言ってしまうのだから、やはりデリカシーには欠ける。本当に結婚していたら、いくら内心そう思っていたとしても、実際、口には出さない(出せない)だろう。
「結婚は人生の墓場」という諺、人生訓がある。その意味としてこう説明されることもある。墓場とは死、どの人間にも平等に「死」は絶対にやってくるもので、生と死は一心同体。誰もが最後は墓場に入る訳である。「結婚は人生の墓場」の墓場とは最後に自分が入る安住の地を手にいれたということ。即ち結婚とは「安住の地」を意味する。
若い人たちに「愛」とは何かを訊ねる。皆さんなら何と答えるだろうか。若い人らしく「情熱」という答えが返って来る。もう少し上の世代に訊ねると「理解」と言う。また少し上に世代に聞くと「忍耐」と答える。さらに上に世代になると「赦し」と言われる。さらにもう一つ上の世代になると「諦め」という答えが、返って来ると言う。皆さんはどれに近いか。「情熱」から「諦め」に至る道程、まさに「安住の地」への旅にふさわしい。そのような中で、当たり前の生活が紡がれていくのである。
「律法」はパウロにとって「空気」のような存在だったのだろう。共にいて当たり前、共に歩んで当然、しかしいつまでも、変わらない日々というものはない。パウロにとって「律法が死んだ」と言う出来事がもたらされたのである。長年連れ添って来た伴侶の突然の死、訣別こそが主イエスとの出会いの体験であったのである。あのエマオ途上で、突然、復活の主イエスが彼に呼びかけるのである。それで「目が見えなくなってしまった、何も見えなくなってしまった」とは、まさに愛する者が取り去られるような体験だったことだろう。自分のかけがえのない伴侶、つまり「律法」から無理やり引きはがされた、ここで初めて彼は新しくされたのである。そうでもしなければ、自分からは新しくなれないのが人間であるのかもしれない。6節の最後で、パウロはこう語る「霊に従う新しい生き方で仕えるようになる」、直訳しよう「霊(がもたらす)の新しさの中に、私たちは生きることになる」。神の生命、聖霊は、私たちの日々に働いて、新しい日常を創り出す。それは古い自分が引きはがされることであるが、古い自分が新しくされることである。私たちは常に神の新しさの中でいきるのである。