ノーベル賞の受賞者の発表の季節となった。2016年のノーベル文学賞受賞者を覚えていいるだろうか。アメリカのフォーク歌手、ボブ・ディランである。彼の歌の中で最もよく知られているのが、日本語で『風に吹かれて』と訳される、“ Blowin` in the Wind”である。1963年にリリースされたセカンド・アルバム『フリーホイーリン・ボブ・ディラン』に収録され、後にシングル・カットされた。もっとも、他の歌手が歌ったことで、広まったのではあるが。
「どれだけの砲弾を発射すれば、武器を永久に廃絶する気になるのか」、「政治家たちは、いつになったら人々に自由を与えるのか」、「一人一人にいくつの耳をつければ、他人の泣き声が聞こえるようになるのだろうか」、「人はどれだけの死人を見れば、これは死に過ぎだと気づくのか」、非常にストレートな歌詞で、プロテスト・ソングの典型とも評される。ただ繰り返し歌われる「答えは風の中に、答えは風の中に」という言葉が、何を意味しているのか、盛んに議論されたという経緯がある。
歌詞は、1962年に雑誌「シング・アウト!」に、ディランのコメントとともに掲載された。そこで彼は、このように自分の歌について語っているのである。「この歌についちゃ、あまり言えることはないけど、ただ答えは風の中で吹かれているということだ。答えは本にも載ってないし、映画やテレビや討論会を見ても分からない。風の中にあるんだ、しかも風に吹かれちまっている。進歩的な奴らは「ここに答えがある」だの何だの言ってるが、俺は信用しねえ。俺にとっちゃ風にのっていて、しかも紙切れみたいに、いつかは地上に降りてこなきゃならない。でも、折角降りてきても、誰も拾って読もうとしないから、誰にも見られず理解されず、また飛んでいっちまう。世の中で一番の悪党は、間違っているものを見て、それが間違っていると頭でわかっていても、目を背けるやつだ。俺はまだ21歳だが、そういう大人が大勢いすぎることがわかっちまった。あんたら21歳以上の大人は、だいたい年長者だし、もっと頭がいいはずだろう」。若者らしい痛快なセリフである。「一番の悪党は、間違っていると分かっていて、目を背ける輩だ」。これくらい人間として不従順(素直でない)、信実に背を向けている、不誠実なことはない。今も、この歌の向かうところは、全く変わっていない。
今日はローマの信徒への手紙からお話をする。パウロの手紙の中でも最も大部であり、彼の神学思想を余すところなく詰め込んだ書物である。後の教会に与えた影響も多大なものがある。ナチス・ドイツ、ヒットラーに抵抗する告白教会運動も、この手紙から沸き起こったということもできるだろう。但し、いささか長い手紙である。そのあたりのところは、著者パウロはよく分かっていて、メリハリや展開をよくよく考えながら、記している。
今日のパラグラフは、インターミッションの役割を果たし、賛美歌で言うなら「頌栄」のような趣のある文章である。くすしき神の栄光を讃える、33節「ああ、神の富と知恵と知識の何と深いことか、だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解尽くせよう」。確かに、人類の歴史を通して、ずうっと人は神について考えて来たし、いろいろ探求して来た。神についての問いは古いが、絶えず新しく捉え直されて来た。ある哲学者は、「神は死んだ」と語ったが、それで神についての思考が、終わってしまったわけではない。ある大学の神学部の壁に、誰かが落書きをした。「神は死んだ、ニーチェ」、すると次の日、その落書きの横に誰かが書き足した。「ニーチェは死んだ、神」。聖書の神は、復活の神であるが、神への問いというものは、もはや終わってしまったように見えて、絶えず新しい顔を覗かせるのである。
しかし、どうしてパウロはこんな風に、神の栄光をここで讃えるのであろうか。その前節を読むと、「不従順」という言葉が目に入る。30節「あなたがた(異邦人キリスト者)は、かつて神に不従順でしたが、今は彼ら(ユダヤ人)の不従順によって、憐れみを受けています」というのである。「不従順」なのは誰か、まことの神を知らない異邦人ばかりでなく、選ばれた神の民、ユダヤ人もまた不従順なのだ、とパウロは言う。32節「神の全ての人を不従順の状態に閉じ込められた(監禁された)」。人間は、ユダヤ人も、異邦人も、すべての者が「不従順」という檻の中に閉じ込められ、監禁され、もがき苦しんでいる。だから、互いに信頼し合えないが、絶えず敵対し、反目し、相手を敵として、絶えずけん制し合っている。「不従順」という「檻」は、人間の心を狭め、小さくし、共に生きる喜びを奪う。しかし神は、その不従順な檻に閉じ込められている私たちを、「憐れまれた」と言われる。神の子が引き立てられ、鞭打たれ、十字架に釘づけにされる、これこそ私たち人間の、神への不従順を表す一番の姿である。そして、人間は神を殺すのである。神を殺す人間は、だれも信じることができないから、隣人をも殺し、互いに食い合うのである。しかしそこに、十字架によって、憐れみを注いでくださった。赦しを告げて下った。新しい復活の命を備えてくださった。ここに私たちの、賛美の根源がある。
10月の第一聖日は、「世界聖餐日」に定められている。世界の全ての教会が、主に在ってひとつであることを覚え、礼拝し、聖餐を守ろう、というのである。日本基督教協議会(NCC)は、この日について次のように諸教会に呼びかけている。「世界聖餐日は、1930年代にアメリカ合衆国の長老教会において始められました。世界中のキリスト者が主の食卓につくことによって一致し、互いに認め合うことを願って始められた世界聖餐日は、第二次世界大戦によるさまざまな対立が深刻化していた1940年に、アメリカNCCの前身であるアメリカ連邦教会協議会によってエキュメニカルな祝日とされました。現在では世界中に広まり、毎年10月第1日曜日に世界聖餐日が祝われています」。
歴史的には、まだ百年にも満たない祝日であるが、20世紀に、世界の教会がひとつである、との思いが拡がり、「主の食卓を共にしよう」との呼びかけが生じたのは、実に世界を巻き込む、「2つの大きな戦争」が起こったからである。もはや20世紀の戦争は、兵隊がお互いの命をかけて戦い、争い合うものではなくなり、戦争とは直接かかわりのない人々、幼子、子どもたちの生命を、無差別に、大量に、誰をも見境なく、一挙に容赦なく奪う残虐なものとなった。戦争の現実を目の当たりにした教会の人々は、その残虐に対して、自分たちが全く無力だったこと、あまりに自分勝手で自分の教会しか考えてこなかったことを、即ち、あまりに主イエスに「不従順」であったことを、僅かでもようやく悟った。教会はもはや主イエスの教会ではなくなってしまった。その嘆きの中で、もう一度教会として歩みだすために、教会の一番はじめのわざから始めよう、としたのである。それは十字架につかれた主イエスの食卓に、全ての人が共に集おう、ということであった。人間の無力と不従順を、神は決して見放されることはない。確かに不従順の中に、人間は「閉じ込められる」が、それを深く憐れまれるのが、神のみこころである。それは主イエスの十字架のみわざに明らかにされている。私たちすべての者の「不従順」を解き放つ、神の力を覚えつつ、今日の聖餐にあずかりたい。