詩人、吉野弘氏の作品『漢字喜遊曲』の中の1節、「幸いの中に人知れぬ辛さ/そして時に/辛さを忘れてもいる幸い。何が満たされて幸いになり/何が足らなくて辛いのか」。
「幸」という字と、「辛」という字はよく似ている。一本、横棒があるかないか、だけの違いである。ところがその字が表す意味は、真逆である。本当は、その二つは全く別物ではなくて、どこかでつながっているのではないか。詩人は、ふたつの漢字を見ながら、想像を自由に膨らませる。
もちろんそれぞれの漢字の成り立ち自体は、全く別のところにあるのだろうが、偶々、形が似てしまっただけなのかもしれないが、「何が満たされて幸いになり/何が足らなくて辛い」と語られるように、ほんの少しのこと、些細なことが満たされているか、それとも欠けているかで、このふたつの差異が現れる、という洞察は、詩人ならではの優れた感覚であろう。
イザヤと呼ばれた預言者は、ウジヤ王からヒゼキヤ王の治世の時代、紀元前8世紀の後半40年余りにわたって、エルサレムで活動した旧約最大の預言者の一人である。前742年、長くユダ王国の王位にあったウジヤの死んだ年、神の召命を受け、預言活動を始めた、と考えられている。ところがイザヤ書40章以下55章にわたる預言は、ユダのバビロン捕囚時代の末期を背景にしていることから、イザヤとは異なる無名の預言者が語った言葉とみなされている。名前の分からない預言者であるから、便宜的に「第二イザヤ」と呼ばれて来た経緯がある。
この第二イザヤが、夙に有名なのは、断片的に「主の僕の歌」がちりばめられていることである。最初、第二イザヤは、ユダを滅亡させたバビロニア帝国を滅ばしたペルシアの王キュロスを、「主の僕」と考えていたようだ。異郷の王をも、神ヤーウェはご自分の「僕」として用いられる、というのである。確かにこの王は、ユダにとって怨念の敵国、バビロニアを滅ぼし、捕囚下にあるユダヤの人々に解放を告げた。祖国に帰り、そこで自分たちの国を復興せよ、との勅令をも布告した。ところが、やはりキュロスは異教の国ペルシアの王なのである。エルサレム神殿復興のための資金援助も行うのであるが、素よりヤーウェ宗教とは相いれない異教の支配者なのである。ユダヤ民への寛容さも、その後の統治をにする目論見からの政策に過ぎなかった。
異教の王キュロスに失望した預言者は、「主の僕」の新しいヴィジョンを語り始める。それが、現在、預言書中に断片的に見出される、「主の僕」の歌である。そのすべてを繋ぎ合わせても、必ずしも首尾一貫したものとはならない。そこでこの「歌」が、何について、誰について、歌われたものなのかが、聖書学上の大きな問いなのである。
古代文学の韻文の表現法では、事柄を具体的に、即物的にかたるという手法を取らない。「貧しさ」と言っても、経済的な困窮というよりは、神に対しての謙虚さを表す用語であった。だから神に祈る者は、自らを「貧しい者」と称したのである。また「病い」についての言及がなされ、そのために隣人から疎外されている、という訴えがあってもそれが、どんな「病」なのかは、具体的には語られない。つまり「病」もまた、現代の診断名のつく個々の「病気」のことを指すのではなく、何らかの理由で共同体から疎外された状態を言い表す述語であったのだろう。
そして本章には、「主の僕」の歌について、一番まとまりのある記述がなされている。そこでここを手掛かりに、ユダヤ教、キリスト教の学者たちは、この「僕」が誰なのかを、繰り返し問うてきたのである。ここで語られている「僕」は、病に苦しみ、しかもその容姿が変わり果てるほど、重い病状に悩み、さらに神に呪われ、罰せられた者として人々から捨てられ、嘲られるという。さらに今日の個所では、彼は(不当な)裁きによって、断罪され、処罰された。しかもその不条理を、彼は黙々として引き受け、受け入れ、己が生命の発露として「満足」して死んで行った、のだという。
この「僕」として現実に生きた人は誰か、旧約中のいろいろな人物に、重ね合わせられてきた。モーセ、ヨブ、そして第二神殿復興の立役者ゼルバベル等々、様々な人物が「僕」であると想定されて来たのである。ところがどの人物を当てはめて見ても、決してここで語られている「僕」と、まったく一致するわけではない。だからユダヤ教の学者たちは、この「僕」、ユダヤ民族の、将来にわたってたどるべき使命を語る幻、あるいは将来、来るべきメシアであると考えたのである。
キリスト教会は、この「主の僕」を最初から、十字架に付けられ、無辜の死、不条理の死を遂げた、ナザレのイエスの予言であると見なして来た。実際、律法では十字架は神の呪いのしるしであるから、十字架に付けられたメシアを弁証するには、まさに格好の章句だったろう。否、はるか昔に、すでにわれらの主の生涯が、鮮やかに語られていることに、大いなる畏怖をも感じたことであろう。
「主の僕」の歌は、「贖い」を語るものとして理解されてきた。5節の章句、「わたしたちの背きのために、咎のために」、また10節「自ら償いの献げものとした」等の言葉を、「贖い」と考えたことによる。ところが「贖い」とは、奴隷の身代金を払って、請け出すことであり、それは通常、裕福な者や、資産家、貴族のふるまいを表すものであった。ここで語られる「僕」は、自らも病に悩み、傷を受け、苦役を忍び、裁判によって断罪され、処刑されたのである。ここに「主の僕」の姿を理解する一番のメッセージがあるのではないか。
「主の僕」の歌は、一貫して「僕」の「共鳴、共感、共苦」を告げている。決して上から下への、哀れみやお情けを語るものではない。「贖い」はやはり、「上位者のお情け」に尽きるのである。最初に詩人が「漢字」の一棒があるとないとで、まったく正反対の意味が現われるとイメージしたように、横棒一本が欠けたところでは、人のつらさはいや増し、横棒一本があるところで、人の世の「幸」も生まれて来るということなのだろう。アフリカ、セネガルの言い伝えにこういう言葉がある「人の病の最良の薬は人である」。