祈祷会・聖書の学び サムエル記下17章15~23節

「副大統領になる女性は私が初めてかもしれないが、最後にはならない。今夜の出来事を見ている全ての少女が、この国は可能性に満ちていることを理解するからだ」。米国の副大統領職に就くことが確実になった時に語られた、カマラ・ハリス氏の勝利演説である。女性の参政権が憲法で認められて100年が経過し、その道程を切り開いてきた女性たちをたたえ、次代を担う少女を勇気づける言葉であった。

どんな絶大な権力を手にする独裁者であっても、所詮は人間なのである。「朝に紅顔、夕には白骨」という言葉もあるが、人生の一瞬先は闇なのである。だから万が一事故ある時に備えて、その人の代わりを担う「副」の存在がどうしても必要となる。実際、歴代のアメリカ大統領の中にも、手術や事故のために、代役が主役となったこともある。

但し、「副」は単に「主役」の代わりではない。通常ドラマで「副」の存在は、物語の添え物ではなく、主役に勝るとも劣らない働きを与えられているものである。主役に対し、協力あるいは抵抗し、反発あるいは協調し、忠誠をつくしつつ裏切り、張り合いつつも支える微妙な関係を構築するのである。主役にひたすら唯々諾々と従うイエスマンでは、物語はちっとも面白くない。しかし、現実の人間関係も、滅多に表面化はしないまでも、そのような緊張関係、駆け引きが常に潜んでいるのではないか。

優れた人間は(能力だけでなく人格的にも)、自分の周囲に「優れた人間」とつながりを保っているものである。どんな優れた人間も、ひとりの力はたかが知れている。国家のような比較的大きな集団のリーダーには、カリスマは必要だろうが、それだけで大勢を動かすことはできないのである。ワーキング・グループの存在が不可欠となるだろう。とりわけ政策決定に際して、「相談役」や「参謀」、あるいは「知恵袋」の存在に、大きなウエイトが罹る。

ダビデの先王サウルにも、そのような役割を果たす幾多の人物があった。最後の士師であり、いわば全イスラエルの政治顧問とも言うべき長老サムエルや、軍の司令官アブネルらは、その最たるものであった。ダビデ自身もサウルの側近として仕える中で、相談役のひとりとして、王の片腕のような立場であったろう。そのような先代の優れた側近をダビデは受け継ぎ、自らの政策推進の力として来たのである。

ところが「バト・シェバ事件」を発端にして、ダビデは家族や側近、それを取り巻く人間関係に大きな破綻が生じ、そのために王自らが、生涯、苦悩と苦難を背負うことになるのである。王の長男アブサロムは、その事件が起こるまで、「王位継承」の問題については、何の危惧も抱いていなかった。ダビデ家の中で、外見や風貌、能力、人望について他と比べるべきもなかった人物である。しかしバト・シェバとの間にソロモンが誕生すると、問題が一挙に噴出してきた。王家の中に、継承者を巡る派閥争いが激しくなり、それまで最右翼であったアブサロムが強硬な姿勢となり、父王ダビデの暗殺を企てるまでになる。かつてサウルに憎まれて逃亡生活を余儀なくされたダビデは、またもやもう一度繰り返すことになったのであるが、逃げる相手が実の長男であったことは、自ら播いた種とはいえ、皮肉な人生の巡り合わせであった。王の権力をもってすれば、アブサロムの運命は掌上の如きものであるが、そこに親子の愛憎が絡むのである。否、親の情に深くつき動かされているからこそ、ダビデなのだと言えるだろう。ここにこの王の悲劇と魅力がある。

アブサロムは父ダビデの潜む所を襲い、禍根の根を断とうとする。どのような戦術を用いればいいか、アヒトフェルに相談を持ちかける。16章23節に「そのころ、アヒトフェルの提案は、神託のように受け取られていた。ダビデにとっても、アブサロムにとっても、そのようなものであった」と伝えられているが、彼の見識がひときわ秀でていたことが分かる。この人物はバト・シェバの祖父で、かつてはダビデ王の顧問であったが、「事件」のために、恐らくけじめをつける意味で、王と距離をとってギロに隠居していたのだろう。しかし奸計によって婿を奪われ、孫娘を恣にした王に、屈曲した思いが淀んでいたことも事実だろう。幼少の頃から知るアブサロムに乞われて、この若者に人生の最後を賭ける気になったのか。

アヒトフェルがアブサロム側についたことを知らされて、ダビデとその取り巻きは、泣きながらエルサレムから逃亡した、と記される(15章30節)が、この知らせはダビデの士気をくじくのに余りあっただろう。それ程、ダビデのことを知り抜いている人物なのである。ダビデ自身も命運尽きたと観念したことだろう。彼の提案は「一万二千の兵をわたしに選ばせてください。今夜のうちに出発してダビデを追跡します。疲れて力を失っているところを急襲すれば、彼は恐れ、彼に従っている兵士も全員逃げ出すでしょう。わたしは王一人を討ち取ります」というものであった。ダビデの戦術の巧みさは、敏捷さと神出鬼没なゲリラ戦にあった。だから追討の人数を限定して、小回りを利かせ、何よりも素早く勝負をかけることだというのである。確かにこの提案には、永年、王の片腕として働いて来た片鱗が伺える。

ところがアブサロムは年若いだけに、自分の信念よりも一同のコンセンサスを重視し、セカンド・オピニオンを求めたのである。ところがその求めた相手は、よりによってダビデの息の掛かったエージェント、フシャイであった。彼の提案は、アブサロム一派が飛びつきそうな罠に満ちていた。ダビデのやり方を熟知したアヒトフェルの真逆の戦略で、見た目効果を狙っただけの仰々しい方法である。イスラエルの全軍を集結させ、アブサロムを先頭に華々しく、大群で絨毯攻撃を仕掛ければ、ダビデ一味を壊滅できる(11節以下)というのである。アブサロムたちは、まんまとこの計略に乗せられるのである。

フシャイの計略、またダビデへの伝令ㇸの指示と危機、脱出、この個所のスリリングな話の展開は、さながらスパイ小説を読むようであるが、こうした人間の一連の動きの中に、神のはたらきが隠されてはいるが、ち密に巡らされていることを、物語の言外に示されているだろう。政治的駆け引き、軍事行動、権力闘争、親子の愛憎等、もっとも人間臭い、醜い人間の現場にも、神の手はしっかりと伸ばされているのである。

今日の物語の末尾に、提案を退けられたアヒトフェルの自死が語られる。「祖先の墓に葬られる」と深い敬意を表された追悼が記されている。彼にはアブサロムの破滅がはっきりと見えていただろう。一度はアブサロムに賭けた命である。この悲劇の息子に殉じようとした忠義なのか。それとも己の人を見る目がなかったことへの自嘲あるいは悔恨か。静謐に「家の中を整えて」死を選んだことに、彼の心も表されているだろうか。