「手を触れて」マタイによる福音書17章1~13節

こんな新聞記事が目に留まった。10年前を思い出した人も多いだろう。福島県沖でマグニチュード(M)7・3の地震が起き、最大震度6強を観測した。東日本大震災の余震という。同時に「もっと大きな地震が来るのでは」と東北の人々を身構えさせた。実際に高台に避難した人もいた。というのも大震災2日前の2011年3月9日、三陸沖でM7・3の地震があったからだ。

10年は一昔、という言葉があるが、「自然」にとっては、決してそれは「過去」のことではないし、被災された方々にとってもまた、「過去」の出来事ではない。震災後、一年程経って、「復興」が口にされるようになった。いつまでも後ろを向いていないで、前向きに生きなければ。悲しみを乗り越えて、と人は言うかもしれないが、そんな簡単に思い出や悔恨の心を整理することはでいないだろう。

震災で被災した方々の心を歌った歌に、『秋日傘』という作品がある。津波で自分のお子さんを失くされた、親戚のおばさんの家を訪問する、ひとりの少女の思いをつづった詩である。こんな詩が語られている「お線香かりて 両手あわせて 写真の中に 祈ったのは/早くおばちゃんが 悲しい気持ちと 仲直り 仲直り できますように/進む気持ちと うつむく気持ち 人の心に秋ふたつ。とーさん これを持っていけって 庭の干し柿 今年の林檎/おれはこんなで 口下手だから おまえがそばに いてあげなって/草の葉 葛の葉 風たちぬ。供えたお菓子 ひとつおろして おばちゃん 小さなため息つくの/お腹がすいたと わたしを呼ぶ声 聞きたいな 聞けたらな もういちどだけ/たたむ想い出 たためぬ想い 時が急かせる衣更え」。

この歌の作詞をした康 珍化氏は(かんちんふぁ)この歌の生まれた背景をこう語っている。「震災から、やがて2年が過ぎようとしていた冬のある日のことです。津波で子供を亡くしたお母さんたちの、その後の日々を伝えるテレビ番組を見ました。『復興、復興っていう声を聞くのが辛い、だって復興できないものを失くしてしまったから』と呟いた、若いお母さんの嘆きが胸に刺さりました。あの日、思いがけず別れを告げたたくさんの命は、同時に多くの未来を連れ去りました。子供であれば、まだ蕾だった物語のその続きを。暦を待たずに成長してゆく喜びと、折々の驚きを。大人であれば、年を重ねて深まってゆく笑顔の味わいを、並んで生きることの安らぎを。人生を共に分かち合ってきた人の姿をもしそこに見つけられないとしたら、その悲しみをどんな風に受け止めたらいいのでしょう。

「人生を共に分かち合ってきた人の姿をもしそこに見つけられないとしたら、その悲しみをどう受け止めればいいのだろう」、とこの詩人は自らに問う。だから「進む気持ちと うつむく気持ち 人の心に秋ふたつ」また「たたむ想い出 たためぬ想い 時が急かせる衣更え」、進む気持ちとうつむく気持ちの間で、行きつ戻りつするしかない。いつか思い出もたたまなければ、区切りを付けなければならないだろうが、中々すっきりとそうすることはできない。この思いは、震災にあって、親しい人を奪われて、嘆き悲しむ人ばかりか、愛する者を失う体験をした人皆に、共通する思いだろうと考える。

弟子たちを始め、初代教会に集った人々は、主イエスが十字架で奪われたことについて、周りの人々から鋭く問われた。「なぜ神の子ともあろう者が、十字架で血を流し、みじめに苦しんで死んだのか。キリストならば、ローマ皇帝以上に、もっと栄光に包まれた、きらびやかな装いやいで立ちで、大きな力で、敵や不義を蹴散らしていく、そういう華々しい存在ではないのか」。しかし弟子たちや最初のキリスト者たちの問題は、そういう問いに答えることよりも、愛する人、かけがえのない師を奪われた悲しみ、喪失感をどうしたら良いのか、どう埋めればいいのか、そっちの方がもっと大きな問題であった。どこに慰めを求めればよいのか。

今日の個所は、大胆に言ってしまえば、かけがえのない、大切な人を奪われた人々にとって、何が慰めとなるのかを語ろうとするテキストである。聖書によれば「山の上」は実に神との出会いの場所なのである。モーセも我知らずホレブの山に、燃える柴を見て奇妙に思い、山に登り、神との出会いを体験する。ここではそれをなぞるかのような体験が語られる。主に連れられたペトロ、ヤコブとヨハネが、高い山の上で、神の子、主イエスの神々しいお姿を、垣間見た出来事が告げられる。確かに高い山の上は、神秘的な場所である。人が山に登りたいと思うのは、山の持つ不思議さ、神秘さなのかもしれない。

2節「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」という。そして旧約の立役者モーセとエリヤと、主が肩を並べて論じあった、というのである。そういう華々しいお姿で皆の前に現れたなら、どの人も皆、やすやすとナザレのイエスを主と信じるだろう。あのきらびやかなローマ皇帝に負けない称賛を、誰もが浴びせるだろう。そしてこの国の教会にも、もっともっと人々が押し掛けるだろう、と思うだろうか。

いや、もっとストレートに聞くが、そのようなお姿であなたの目の前に、主イエスが立たれたら、あなたは今以上に、イエスを主として、熱烈に、迷うことなく、信仰もゆるがず、信じることができるだろうか。そもそも私たちは、どこで主を信じますと告白しているのであろうか。

5節にこうある。「ペトロがこう話していると、光り輝く雲が彼らを覆った」。ペトロが訳も分からず「祠を三つ建てましょう」などと頓珍漢なことを言っている内に、まあ、私たちの信仰の告白だって、そんな程度である。訳も分からず、頓珍漢で、当て外れ的外れなことを口にするくらいのものである。「雲が湧き出でて」、旧約では、主なる神のいます所には、雲が沸き起こり、そのみ姿を隠す、と伝えられている。聖書の神は、みずからのお姿を隠されるのである。どうしてか。そもそも人には神を理解する能力はないのである。神をその目で見たとしても、神を捉えることはできないのだ。そして人間は、見た目に弱い、見た目で誤った判断を下すのである。だから神は自ら姿を隠し、み言葉によって、自らを私たちに示されるのである。きらびやかさ、あでやかさを誇示するのは、中身が欠けているからである。神にとっては外見で勝負する必要などない。

弟子たちにとって、イエスが主であり、キリストであるのは、きらびやかなお姿、神々しいお姿で自分たちの前に立たれるからではない。7節の章句は、マタイにしか記されていない言葉である。マタイが、自分たちのまことの慰めと力はどこにあるのかを、語ろうとした大切なみ言葉である。「イエスが近づき、彼らに手を触れて言われた『起きなさい、恐れることはない』」。きらびやかであでやかな姿に引かれて、自分たちがイエスに近づいて行ったのではない。主の方が私のところまでお出で下さり、こんな私に手を触れ、捕まえて下さり、言葉をかけて下さった。「起きなさい、立ち上がりなさい、恐れる必要はない」、今も目に見えないお姿で、この私と触れ合って、言葉をくださっているではないか。

東日本大震災10年を迎え、地元に住む方の手記を目にした。ちーたま氏(ペンネーム)の文章を一部、転載する。この方は仙台市内でヘルパーをしており、震災当時は「とにかく何かしなくちゃ」と動いていた。でも、若くもないし、力もなくて、自分にがっかりしていた。ある時から、自分にできるやり方を模索する中で、地道に続けるという関わり方を見つけた、という。

「毎年大きな災害が起きる。東日本大震災は、それらと比べても2桁か3桁違う規模の大きさだったとは言え、人の記憶は薄れるものだ。それなら、地元の人間が頑張るしかない…そう思った。大きなことはできないけれど、ずっと一緒に歩き、一緒に考え、一緒に悩む。それを続けて行こうと始めたのが、週1回の荒浜の農家のお手伝い。大したことではない。トラクターには乗れないし、軽トラも運転できない。でも、草取りはできるし、種まきや田植えの手伝いなど、人手のいる作業も沢山ある。今はこの週1回の荒浜通いが、被災後の私の日常でもある。コロナ禍で、ニュースがそれ一色になった時も、この畑に来て心を落ち着かせることができたし、何より食料を作っているので、スーパーからコメが消えてもパニックにはならなかった。そして、毎月11日前後には、荒浜の方々がかつて住んでいた場所まで行き、慰霊碑にある知り合った方のご家族の名前を指でなぞって祈ってくる。ここはそういう場所であり、大切な場所でもある」。

自分が手を伸ばし、触れることの出来る小さな働きの中に、日常が回復され、恐れが取り払われ、力となり、祈りとなる。主イエスが、弟子たちに手を伸ばされ、彼らに触れられ、み言葉を告げられた。「起き上れ、恐れることはない」。ここに私たちは生かされるのである。