「探しているものや大切なものは、自分の近くにありながら見えにくいものでもある」。
去年から今年にかけて、私たちは、世界からこういう問いかけを受けているようだ。そういう何かを、見出すことができただろうか。
ある新聞の社説にこう論じられていた。「外国語を話す人たちがあちこちで記念撮影をし、土産物店で買い物をする。そんな光景を目にしなくなってだいぶたちます。有名観光地では、受け入れ能力以上の人が殺到していたことが、今では信じられないほどです。日本を訪れる観光客が三千万人を突破したのは二〇一八年のことでした。日本政府は三千万人は通過点であり、東京五輪・パラリンピックが開かれる二〇年には四千万人を目指すと、強気のそろばんをはじいていました。ところが新型コロナウイルスの影響で、訪日観光客は前年同月比で99・9%減の月が続きます。その結果、期待していた外国からの観光客は、ほぼ蒸発しました。
世界も状況は同じです。国連世界観光機関(UNWTO)によれば、世界での海外旅行客数は前年から74%、約十億人も減少しました。〇九年の世界規模の経済危機でも減少しましたが、わずか4%でした。今回の衝撃の大きさが分かります。大きな打撃を受けただけに、コロナの混乱が終われば、急回復が望めます。「観光は、コロナ後における最大の成長産業だ」という人もいるほどです。
ただ、昔ながらのやり方では、もう人々は帰ってこないでしょう。新しい時代にふさわしい観光像の模索が始まっています。その一つが『スローツーリズム』と呼ばれているものです。例えばイタリアでは、国内の聖地を回る短い距離の巡礼路歩きが人気だそうです。有名観光地をつなぐ昔からの道を自分の足で歩き、自然や遺跡を緩やかなペースで楽しむ。withコロナ時代にふさわしいツーリズムでしょう。『サステイナブルツーリズム』にも注目が集まっています。持続可能型観光のことです。世界遺産の白川郷や、長良川の鵜(う)飼いで知られる岐阜県の取り組みが有名です。いま旅行先を選ぶ人は、自然や田舎、安心安全などをキーワードにしているそうです」(東京新聞5月2日付「社説」)。
今までのもの、あるいは方法、事柄が通用しなくなってしまうことがある。物事の終わり、終焉、破綻は、人間の世にはつきものである。それは努力が足りないとか、怠けているせいだという以上に、人間という存在が「有限」であり「限界」を持っているからである。人間にはどうにもならないことは確かにある。しかし、「どうにもならない」と言って全く手をこまねいていたり、努力を放棄することも、性急で愚かであろう。ただ何を第一とするか、が一番大切な問題なのである。それを見きわめる目が、最も必要なのであろう。キリスト者にとっては、主イエスが言われたように「まず神の国と神の義を求めよ」が、起点となるであろう。私たちが出発するのは、何より神の国を求めてなのである。「そうすれば必要なものは、すべて備えられる」のである。
「終り」や「破綻」は確かに区切りではあるが、それによってまったくすべてが空しく費えてしまう訳ではない。必ず新しく生まれてくるものや事柄がある。もしかしたらそういう終わりをもたらすもの、破滅をもたらす事柄の力(恐らくそういう力は、非常に強力なのだろう)を借りなければ、新しくなれない人間の宿命があるのかもしれない。
今日の聖書の個所は、ルカ福音書の末尾、主イエスの昇天を語るテキストである。復活後、弟子たちにみ姿を示されていた主イエスが、弟子たちの下を離れ、天に帰られる、という伝承である。いささか神話的色彩の強い描き方がされている。「主の昇天」という出来事は、この世における「イエスの時」の終焉、つまり主イエスが、私たち人間と同じ姿となり、私たちの世界をその足で歩み、私たちと同じく人生の時を過ごされた方が、今や別れを告げられる、そういう意味で「終り」なのである。
カトリック教会では、「主の昇天の出来事」を非常に重要なものと考えている。ある神父がこう語っている。「この主の昇天の出来事はわたしたちの希望でもあります。きょうのミサの集会祈願の中に、『主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています』という言葉があります。わたしたちの歩みは肉体の死で終わる歩みではなく、死を通って最終的に神のもとに(天に)至る歩みなのです。そのことを本気で感じ、受け取ったときに、今のわたしたちにとって目の前の喜びや楽しみ、苦しみや悲しみがどのような意味を持っているかが見えてくるのではないでしょうか」。
この福音書を記したルカは、優れた歴史家であり、神のご計画の時の流れを、長い目を持って捕らえようとする。44節に「モーセの律法と預言書と詩編に書いていること」という表現があるが、これは旧約聖書を指している。ユダヤ人は、「聖書」という言い方をしない。「律法(トーラー)、預言書(ヌビイーム)、諸書(ケスビーム)」という実質的な呼び方をする。いささか長いので、頭文字だけ取って「タナカ」と称する。その長い長い時を貫く神の救いの歴史を想起している。そしてそれはナザレのイエスの誕生に連なり、このイエスによってガリラヤから始まる宣教と、エルサレム十字架と復活の出来事が語られ、今や主が弟子たちと別れて、天に上られ、一度、福音書は閉じられる。
しかし、神のドラマはそれで終わりになったのではない。終わりとは次の始まりなのである。47節「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」。「悔い改め」、つまり「方向転換」がここから始まるのだという。一目散に走りながら方向転換するのは、恐ろしく無理がかかる。無理やり方向転換しようとするならひっくり返ってしまうかもしれない。ひとまずそこに止まらなければならいけない。方向転換をするために、一たび、今夢中になってやっていることを終わりにし、留まらなければならないだろう。そこからエルサレムから全世界に拡がる弟子たちの宣教のわざが始まるのだという。その出発点に、主イエスの昇天がある。主イエスの昇天は、主イエスの時の終わりであるが、しかし教会の時の始まりでもある。49節「都にとどまっていなさい」、弟子たちは「主の昇天」という時を迎え、神の救いのみわざのインターミッションに出会っているのである。
昔の長編大作映画、「十戒」とか「ベンハー」等は、間に「インターミッション」が挟まれていた。長すぎてずっと見るのに疲れるから、休憩が必要という訳である。オペラなどの観劇もそうである。幕間に軽い飲食をして、気分や気持を入れ変える。これもまた「方向転換」のひとつであろう。実はこの「インターミッション」の基は、礼拝にあると言ってもいい。説教の後くらいに、オルガンの演奏が行われる。大抵は、演奏者の即興演奏だったらしいが「間奏曲」(インテルメッツオ)が奏される。その中に沈黙して、信仰者は語られたみ言葉にしばし留まるのである。新しく始まるためには、ひと時そこに留まり、動きを留めなくてはならない。それは一見「停滞」とか、「立ち往生」とか「進展なし」に見えるが、「留まる」ところからしか、生まれ出ないものがある。
最初に「探しているものや大切なものは、自分の近くにありながら見えにくいものでもある」という言葉を紹介した。世界の人が、今までのように旅行することが、困難になった。しかしそこで再び見出された、古くて新しい旅の形が見えてきた、という。『失われた時を求めて』で知られるフランスの作家、プルーストは、こんな言葉を残している。「発見の旅とは、新しい景色を探すことではない。新しい目で見ることなのだ」。