以前、教会学校で「からし種を育ててみよう」という企画を立て、大きな鉢植えに種をまいたことがある。土に蒔くのは「芥子(けし)粒」と呼ばれる程の、小さな小さな種である(聖書の「からし種」が実際に何を指すのか、については議論がある)。それが「成長して木になり、その枝には空の鳥が巣をつくる」というのだから、興味をそそられる。どんな木になるのか、「気になる木」である。「空の鳥が巣をつくる」と言うが、確かに「小鳥くらいならば営巣が可能か」、と思われるくらいの丈の高い草に成長した。ところが、この草木に実際に巣を作ったのは、鳥ではなく、15センチはある巨大な芋虫であった。『はらぺこあおむし』の如く、むしゃむしゃと勢いよく葉っぱを食べている。「どうにかしてください」との周囲の声に、近くの里山に放しに行ったのだが、今思うと、あの芋虫がさなぎとなり、やがて成虫となって、空に飛び立つ姿を見ることが出来たら、と残念に感じている。一体、どんな蝶が飛び立ったことであろうか。
今日の個所には、主イエスの語られた「たとえ話」が二つと、「狭い戸口」についての説話、そしてそれに付随する「たとえ話」(門限に間に合わなかった僕)、そして「エルサレムのために嘆く」と題される主イエスの振る舞いについて記されている。これらのパラグラフには、背景にひとつのモティーフが隠されていると思われる。
「からし種」は、当時知られていたすべての種のうちで最も小さなもののひとつだと言われる。その微小な粒が、いったん地面に蒔かれると、やがて信じられないほどの大きさに成長して葉を茂らせ、空の鳥が葉の陰に巣をつくるほどになる、という話である。パレスチナに生きる農民にとっては、からし種はやっかいな植物で、粉塵ほどの微小な目立たない種が畑に落ちると、最初の内はそれと気づくことがなく、雑草かと思っている内に、一気に大きく成長して、畑を占拠する状態になるという。巨大な草木を除去するのは、多くの手間がかかるし、新たに種が落ちればさらに苦労は倍加する、いたちごっこである。
パン種も同様、イースト菌(酵母)のことであるが、粉を膨らませるのに大量のパン種は必要ない。現代のようにインスタント・イーストがない時代には、毎日パン種屋に行って買い求めるのは大変だったので、今日作ったパン生地の一つまみを取っておいて、次の日パンを焼く時に、昨日のパン生地を新しい粉に混ぜ込んで、新しい生地を作り、毎日それをくりかえしたのである。但し、そうすると酵母の力がだんだん弱って来るので、おいしいパンが出来なくなる。だから年に一度、古いパン種を断って、新しいパン種に取り換える習慣が生まれ、それがいつしか「過越祭」に結び付けられたと推定されている。ほんの僅かなパン種によって、3サトンの粉を膨らますことができる、というのである。因みに3サトンは、概ね「40ℓ」の量であるから、かなりの大家族のまかないかパン屋の仕込みということになる。これら2つのたとえ話のモティーフは分かりやすい。最も小さいものが、あるいは取るに足らないものが、最も大きなものとなる、厄介でどうにもならない程に。「神の国」すなわち神の働きは、ごく小さなものを、大きく変える、成長させるというのである。
次に続く「狭い戸口」も、同じモティーフで話が展開する。「狭い戸口から入るように努めなさい」。ある聖書は「努力して、狭い戸口から入りなさい」と訳しているが、こう訳すと、「難関校受験の勧め」のような風情になる。「狭い戸口」とは、人々が皆、入ることを希望するので、入学試験と同じく、合格が難しい、という理解になってしまいがちである。弟子たちは、「救われる人は少ないのでしょうか」と主イエスに尋ねたが、それは「救いの条件」が厳しいのかを尋ねたのであり、受験の偏差値について尋ねたのではない。
この質問に対して、主は条件や資格云々については、直接、答えていないのである。そもそも「狭い戸口」とは、皆が希望して押しかけて来るので、入りにくい、というのではない。「狭い」とは「小さい」ということで、目立たないから見過ごされてしまい、通り過ぎ、無視されてしまうので、「入れない」というのである。この主のみ言葉、「狭い門」を、ルカはどうやら「小さくへりくだって」と理解したようである。謙虚にならなければ、見過ごしてしまうようなところに、神の国への道は通っている。小さな門をくぐるには、頭を下げ、身体を折り、心を低くして通らなければならないだろう。高慢な者には、くぐれるはずがない。低いようで高いのが、「自分のプライド」と「尿酸値」である。
だから、続くたとえ話で、夜、遊びまわり、門限に遅れ、家から閉め出された僕のように、「『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである」と語られる。大店の使用人も、高をくくって高慢にふるまえば、地に落とされるのである。
さて、最後のパラグラフでは、「エルサレムへの嘆き」が語られている。大いなる神殿が聳え、ヘロデの豪奢な宮殿が設えられたユダヤの首都である。この大いなる都に向かって、主イエスは悲痛な叫びを上げて、嘆かれる。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前は見捨てられる」。ユダヤの中で、目に見える最も大きく美しいものは、エルサレムを置いて他になかったであろう。その大いなるものが「見捨てられる」というのである。事実、ルカがこの福音書を書いている時代に、ユダヤ戦争が起こり、エルサレムは神殿はじめ宮殿の諸々が、徹底的に破壊され、都は灰燼に帰すのである。
神は大きなものにではなく、小さいものに目を留められ、これを愛し、育まれる。そもそもイスラエルが神に選ばれたのは、「最も小さく、貧弱であった」からだと語られている。神は、小さなものを無視されず、これを不要とせず、放り出すことをなさらない。却って大きなものの高慢、力に任せて暴虐に振舞う人間の勝手を、許されず、打ち倒される。
大体、大きな門、皆が行きたがる道は、面白くないではないか。皆が烏合の衆のように集まっている所には、何があるのか、たかが知れている。ところがそういう皆が集まる場所に行きたがるのも、人間の性である。それよりも、芥子粒のような種を蒔いて、それが大きく育つ不思議を見、そこにやってくる招かれざる客を観察するのも、一興であろう