「ほかの種は」マルコによる福音書4章1~9節

厳寒の季節、北の地方からは、豪雪の話題が伝えられている。北海道では、除雪の困難さから鉄道が一日運休したという。随分前のことだが沖縄に旅行した時に、現地の人から「わたしはずっと沖縄に住んでいるので、まだ雪というものを直に見たことがない。雪とはどんなものか」と尋ねられたことがあった。「白くて、冷たくて、かき氷が降って来る」と答えたのだが、まったく経験したことがない、という人にそれが実際どんなものか、リアルに伝えることは、実に難しいと感じた。真白くて清々しく見える雪も、解けて水になると、泥水になる。

アメリカ東海岸の南端にあるフロリダ州には、一風変わった気象予報があるという。「今夜はイグアナが降ってくるかもしれません」と注意を呼び掛けるのである。「イグアナ注意報」、冗談ではない。かの動物は、夜には涼しい木の上で過ごすが、爬虫類だから急に気温が下がると、身動きできなくなって木から落ちてしまうのだという。突然の寒波襲来が予想される際に発令される。その注意報が実際に先日出され、地面に転がるイグアナの目撃したとの情報も相次いだという。フロリダは有名なリゾート地で1、2月の平均気温が20度を超える温暖な気候だが、異例の氷点下も記録。北米東部を襲っている記録的な寒波が南下したためだそうだ。

秋蒔かれた麦の種は、厳寒のこの季節に芽を出し、茎を伸ばし成長して行く。発芽のために、寒さが必要な作物である。植物の中には、発芽や開花のために、過酷な環境が必要な種(しゅ)は多い。寒さは生命の危機を呼び起こす。だから却って生命の力が高まる、ということか、桜の花も、冬の寒さが厳しいと、美しい色を出す。次の春の開花が楽しみである。

さて、今日の聖書の個所、「種蒔きのたとえ」である。厳寒の今、麦は発芽し、茎を伸ばして行く、そういう時期に読み、心を向けるにはふさわしいみ言葉であろう。ただ、このたとえ話を読む時には、少しばかり思いめぐらさなければならないことがある。何が主役なのか、何に焦点が当てられているのか。新共同訳のこの個所には「種を蒔く人」のたとえ、と表題が付されている。つまりこの話は「種を蒔く人」が主題なのだという。しかし可能性はそれだけではない。蒔かれた「土地」、あるいは「種」、それとも「収穫」、どれに注目しても、この話は色々に関心を引き出してくれる。

「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」と主イエスは語られる。そもそも一粒の種は、どのくらい多くの実りをもたらすのだろうか。小麦は人類が最も早く栽培を始めた穀物とされるが、収穫率は低い状態が長く続いた。古代ローマでも種1つを植えて、収穫できるのは2、3粒程度だった。今に伝えられるローマ帝国の統計で、最も「良い土地」の収穫率は、6、7粒程度であったと記録されている。中世ヨーロッパになってもほとんど同様だった。収穫率が目に見えて向上するのは10世紀以降で、ヨーロッパ地域で「蒔いた種の10倍の収穫」が見込めるようになったのは、ようやく19世紀になってからのことである。現代では、20倍程度かそれ以上の収穫が望めるようになった、という。品種改良、肥料、栽培法等の技術が格段に進歩した現在でも、主イエスのいう「30倍」に満たないのである。ましてや「100倍」等とは夢のまた夢である。神の国がいかに広大で豊穣なのかが、数字を聞くだけで思い起こされる。

するとこの「種を蒔く人」の乱暴なやり方も頷くことができる。お米作りならば、前もって種もみをプレートに入れて発芽させ、苗代を作り、それを小さく分けて田植えをしていく。田植えも、今で言うソーシャル・ディスタンスではないが、密にならず疎にならず丁度良い間隔を開けて植え、計画的に育てていく。ところがこの種蒔きのやり方はどうか。蒔いた種は「良い土地」ばかりか、「道端」、「石だらけ」、「茨の中」に落ちていく。どこであろうが、所かまわず、何とおおざっぱ、適当、乱暴なやり方ではないか。

以前、子どもたちが幼い時に、節分の豆まきをしたところ、「鬼は~外」と部屋に豆を蒔くと、飼っていた犬が待ってましたとばかり、蒔いた傍から豆をうれしそうにみな食べてしまい、翌朝、お腹を壊していた。なぜこんな節分の豆まきみたいなやり方をするのか、と言えば、そういうやり方をしなければ、麦は収穫できないからである。収穫量が少ない、そういう穀物を食べることができるほど収穫するためには、とにかくたくさん蒔いて、たくさん実るのを期待するしかない。整然と畝を作り、丁寧に種を蒔き、では食べる分が追いつかないのである。ばらばらとたくさんの種を蒔いて、蒔いた後に鋤をもってきて畑を耕し、土に鋤込み、種が芽を出すのを待つのである。後は任せるしかない、これが聖書の世界の農業そして信仰なのである。

ところで、日本語の聖書では表れない、中々翻訳しにくい要素がこのたとえには含まれている。単数、複数の訳し分けの問題は、やっかいである。よくこの国の文章作法では、主語がはっきりと記されないことが語られる。誰が誰に対してものを言っているのかが、いささか不明確な場合がしばしばある。さらに「わたし」は「私個人」のことでなく、「私たち」を、「あなた」は「あなたがた」を暗黙の裡に意味している場合が多いから、厄介である。さらにはこの国の「はい(YES)」は「いいえ(NO)」を含んでいるのである。

今日のたとえでは、「種」に単数、複数の違いがある。どれが単数で書かれ、何が複数なのだろうか。それを区別して翻訳するとなると、面倒なことになる。「種」を複数で表す、「種ら、種たち、種ども、種だね」、どれもだめだね、という印象である。学者の中には、翻訳は諦めて、事柄がはっきりすればいいだろうと「種(単数)」「種(複数)」等と記したりする。学的な良心は分かるが。ここであらぬところへ落ち、転がって行く種たちがある。道端に落ち、石地に落ち、茨の中に紛れ込む種がある。これらの場所に置かれた種は、みな単数形で表される。そして「良い地」に落ちた種たちがある。この種たちは、複数形である。「良い地」とは何か、一体、どこが「良い地」は、語られていいない。但し、蒔かれた種がちゃんと芽を出し、伸びてゆき、実を付ける場所が「良い地」である。それがどこかは、人間の目には隠されているのかもしれない。私たちはどうも、道端に落ち、石地に落ち、茨の中に紛れ込む種ばかりを見ている節がある。それでうまくいかなかったと失望落胆し、ついには己の手を引っ込め、諦めてしまう、やんぬるかな、と。しかし主イエスは言われる、「ほかの種は、良い地に落ちた」。「良い地」に落ちる種たちがある。決してそれは、虚しく、僅かで、取るに足らない、何にもならないものではない。みな、元々は小さな種である、吹けば飛ぶような芥子粒である。その種たちが「30倍、60倍、100倍」に育つのだ。その吹けば飛ぶような粒を、大きく育てる方がおられるのだ。

こういう新聞記事を読んだ。「深夜、ホテルの窓の外で金属音が響いた。向かいの集合住宅のベランダで住人がしきりに鍋の底をたたいていた。変わり者かと思ったら別の建物からも「カンカン」と聞こえだし、町中に金属音がこだました。2017年にスペイン北東部カタルーニャ自治州に出張した時のことだ。『鍋たたき』と呼ばれる意思表示だった。独裁政権期、言論の自由を奪われた市民が弾圧をかいくぐって生み出したという。同自治州の独立の是非を問う住民投票を控えていた。市民らが投票所開設を妨害した中央政府に抗議していた。ミャンマーで市民らが出勤や外出を控える『沈黙のスト』が広がった。軍がクーデターで政権を転覆させてから1年。市民への弾圧が続き、同国の人権団体によると1503人が死亡した。在沖縄ミャンマー人会も那覇市で写真展を開き支援を呼び掛けた。暴力でいつまでも市民の声を封じることはできない。多様な意思表示で自由を求めるミャンマーの人々を孤立させてはならない。民主主義を守るための私たちの闘いでもある。(2月4日「金口木舌」)」

独裁政権時代に生まれたカタルーニャ「鍋たたき」が、今も人々の間に伝えられている。そしてミャンマーの「沈黙のスト」もまた、一粒の種を播く行動ではないのか。その小さな粒が、幾重にも蒔かれる。必ずその種たちが、芽を出し、成長し、実を結ぶ。丁度、雪の一粒一粒が降り積もり、豪雪となって、人間の生活を一度、中断させるほどになる。そのようには働かないだろうか。来る春には、良い地に落ちた種たちが、伸び育って行くことを祈りたい。