「イエスは眠っておられた」マルコによる福音書4章35~41節

二月も末を迎えた。教会に植えられた水仙も青い芽を出し、茎も伸びて、程なく一斉に花を咲かせようかという風情である。春が待たれる頃であるが、「山眠る」北国ではなおも寒波が居座り、雪が解け、堅い氷が緩むまで、今一時の忍耐が必要である。北国の方々の心に、思いを馳せたい。

かつて信州、野尻湖畔の教会で、牧師として労されていた太田愛人氏のエッセイ、『辺境の食卓』の中に、こういうくだりがある。厳寒の1~2月には、野尻湖が全面、結氷する。こうした時期、教会員への訪問は、厚く氷の張った湖面を、スキーを履いて横切って行き来し、お宅を訪ねる。スキーはすごい運動量のスポーツ、スキーを履いてしばらく動き回ると、周りが氷点下の気温でも汗だくになるほど。「玄関で顔を合わせ、頭から湯気を出しているこちらの顔を見るだけで、訪問の相手はすごく喜んでくださる」と牧師は語る。

聖書に、はるばる遠くから、み言葉を伝えるためにやって来る、古の伝道者の姿が言及されている個所がある。「何と美しいことか、山々を行き巡り、良き音信を告げる者の足は」(イザヤ書52章7節)と語られているが、「足が美しい」、と語られるその足の様子を、皆さんは想像できるだろうか。その足は実に長い旅路をたどったために、埃や泥にまみれて、すっかり汚れていたことであろう。その薄汚れた足を「美しい」と受け止める心、即ち「わたしのためにわざわざみ言葉を運んで来てくれた」、が語られている。氷の張った湖を渡って、頭から湯気を出すのをみるのも、それと同じ心情なのだろうか。

さて、今日の聖書個所はマルコによる福音書4章の最後の段落である。先週の説教で、マルコ福音書は、主イエスの語られた「たとえ話」ばかりでなく、そこに記されている物語のすべて、福音書全体が、「喩」として記されている、と語ったが、今日の個所など、まさにそれを証ししているような記述である。主イエスは弟子たちに語られる、「向こう岸に渡ろう」。今、一行は、カファルナウム辺り、ガリラヤ湖の畔にいる。丁度、湖の北端に位置していることになる。そこから船に乗って南下しようというのである。どこに向かうのか、次章では「ゲラサ人の地方」に行くのだという。聖書の巻末等の「新約時代のパレスチナ地図」で確認すると、そこは湖から大分離れた内陸部、「デカポリス」に位置することが理解される。するとすぐに疑問が生じる。そもそもそこに「舟で行く必要はあるのか」。

車で遠方に行く時に、高速道路を使うことがある。もちろん早く着きたいからである。ところが目的地が高速道路から遥か離れている場合、高い料金を払ってわざわざ乗る価値はあるのか。高速道路はしばしば渋滞を起こす、却って下の道よりも時間がかかる場合がある。ガリラヤ湖を船で縦断するのも同様である。対岸に着いて船を降りてから、5倍ほどの道のりを、徒歩で歩かなければならない。まして夜、嵐が起これば海上では難儀をする。なぜ敢えて「向こう岸に渡ろう」と主は言われるのだろうか。

ある学者は「マルコはパレスチナの地理がよく分かっていない」と指摘する。確かに普通ならば、こんな旅の道のりを取ろうとする人はいないだろう。しかし、ここで著者は「たとえ話」のように、この物語を語ろうとしている、という見方に立てば、この記述に得心できるのではないか。要は「向こう岸へ渡ろう」という主のみ言葉が重要なのである。初代教会に於いて「舟(船)」は「教会」の比喩である。「他の船も一緒に行った」という記述から、地域に家の教会が点在していた様子がうかがえる。「大船に乗ったつもりで」なら良いのだが、生憎、最初の教会は「小さな舟」に過ぎない。嵐に弄ばれ、波に翻弄される。そのように教会はこの世の嵐に弄ばれ、この世の大波に翻弄されるのである。しかも、その小さな舟は、大胆にも、無謀にも、「向こう岸」に向かって湖のも中に漕ぎ出すのである。なぜそんな大変な船出をするのか。それはひとえに「向こう岸へ渡ろう」と主が言われるからである。自分たち人間のコンパスや推進力、舵を操って、漕ぎ出すのではない。ただ主のみ言葉のみに押し出される舟こそが、教会なのである。

「向こう岸」とはどこか。そこはゲラサ人の地、デカポリス地方である。この地方は「デカポリス(十の町々)という名前の通り、十ものギリシャの植民都市が作られた土地であり、パウロが復活のイエスにお会いしたダマスコ(現シリアの首都ダマスカス)や現ヨルダン王国の首都アンマン等、今に現存する町々も多い。つまり「向こう岸」とは、異邦の地、異質な場所、知られざる地のことである。この国に「お彼岸」という言葉がある。死者の行く世界のことだが、本来、それは「向こう岸」を意味する言葉である。異界と言っても良い場所が、主イエスの行けと命じられる「向こう岸」なのである。

このマルコが伝える物語は、初代教会の人々が体験した教会の歩みを、巧みに語るたとえ話なのだろう。世界の片隅のようなユダヤ、それも辺境のガリラヤ地方から始まった主イエスの宣教活動である。ガリラヤの周辺だけで活動がなされていたなら、狭いながらも楽しい我が家の如く、安心、安穏とした日々を過ごすことができたかもしれない。ところが主イエスは、「向こう岸へ渡ろう」と弟子たちに語られ、異邦人の地、足を踏み入れたこともない土地に出て行かれた。そして最後にはエルサレムへと歩みを進められ、十字架に付かれたのである。それですべてが終わったかに見えた。主イエスと共に歩んだ長い長い旅も、ついに終点を迎えたかに思えた。しかしよみがえりの主は、弟子たちを前に、再び告げるのである。「向こう岸へ渡ろう」。そうして再び教会の旅が始まるのである。はるかトルコ、ギリシャ、ローマという遥かな「向こう岸」へと。

児童文学者の灰谷健次郎氏が、自分の半生の歩みをこう綴っている(『わたしの出会った子どもたち』)。子ども達のやさしさに支えられて、幸いな働きの場を与えられていた灰谷氏だが、やがて自分自身に行き詰まってしまい、小学校の教師を辞することになる。「わたしは今日で先生をやめます、明日からただのおっさんになります」こういうと子どもたちは、一斉に「そんな殺生な!」口々に悲痛な叫びをもらしたという。氏がどのくらい教え子たちから慕われていたか分かる。その後、傷心の思いを抱えて、沖縄にわたり、パイン工場で働く内、現地の人々とのふれあいによって、徐々に心が開かれ癒されていく。ある時、昼休みに浜辺でこんな出会いをする。砂浜に座り貝殻をおちょこ代わりに、酒を飲んでいるおじいさんがいて、ふと、語り合う。老人は本土の人で「一杯船主(一隻の船の中で家族と暮らし、その船で積み荷の仕事等を請け負う船主)」をしていたという。嵐のために船を沈めてしまい、家族が皆、犠牲になってしまった。そんな悲惨な身の上話に、灰谷氏は慰めの言葉もなく、「神も仏もないですね」と同情する。すると老人はいきり立って怒鳴る「そやない、わしは自分を責めて生きとる」。

昼休みが終わり、この老人とのやり取りをパイン工場のおばちゃんたちに話した。するとおばちゃんたちは口々に言う「そりゃまちがいさ、自分を責めて生きても、死んだ人は喜ばんさ」。おばちゃんたちは先の戦争で皆、大切な家族の誰か、知人、友人の多くを亡くしている。「わたしもおじいさんを殺してしもうた」。一日中、陽気でさんざめいている人たちの話とは、どうしても思えない、そういう凄まじい体験が、一人ひとりに人生に覆いかぶさっている。そしてひとりのおばちゃんが言う「わたしが死んだら、おじいさんも死んでしまうさ、わたしは死ねないさ」。そこにいたおばちゃん皆が頷く。それを聞いて灰谷氏は心に思う「何ということだ、この人たちの中には、もうひとつの『生』が生きている。死者がこの人たちの中に生きている」。

向こう岸に渡らなければ、見えないことがある。向こう岸から振り返ると、これまで悲しんだり、嘆いたり、怒ったりわめいたりして来た出来事が、また別のものとして受け止め直される。嵐の中、主イエスがぐっすりと眠っておられる。嵐の中で弟子たちは大騒ぎする。「わたしたちがおぼれ死んでも、かまわないのですか」。自分たちの身の回りに起こっている危機に、主イエスは見て見ぬふり、まるで歯牙にもかけておられない、全く見捨てられている、そう思い、喚き騒いでいる。

しかし、本当に見るべきものは、嵐の中にあっての主の御姿なのだ。主イエスが眠っておられる、安息の中に休まれているのである。その主のすぐ側にわたしもいる、本当は逆なのだ。人生の嵐の中で、慌てふためき嘆き動揺する、そんなわたしのすぐ側に「向こうから」お出でくださり、安息の内に、安らぎをもって共にいて下さる主が、おられるのである。この主は、わたしたちの勝手な祈り、願いに応え、「黙れ、静まれ」と嵐に命じてくださるのである。主のおられるところ、向こう岸にわたしたちも共におりたいと願う。