「だれにも話さないように」マルコによる福音書8章27~33節

最近、日常生活の変化から、しばしばいろいろな人々の「おうちごはん」が話の種にされる。コロナでなくても、本業とは別に、自分の家で料理を作って、誰かにふるまうことを楽しみにした有名人も多い。画家のロートレックもその一人でだが、彼は自分のレシピ本まで刊行しているので、並大抵の趣味ではない。例えばこんな料理がある。「イナゴのグリル、バプテスマのヨハネ風」。どんなレシピか。「たくさんのイナゴの中から、茶色や黄色のやつでなく、ピンク色の美しいのを選び出す。金網の上に選んだイナゴをのせ、粗塩2〜3つまみふりかけて炭火で軽く焼く」。この芸術家が語ると、三星レストランのメニュのように感じられるから不思議である。

詩人の長田弘氏の作品に、「言葉のダシのとりかた」というユニークな詩がある。詩人とは「言葉」という素材を用いて仕事をする職人のようだ、と感じさせられる詩である。                         「かつおぶしじゃない。まず言葉をえらぶ。太くてよく乾いた言葉をえらぶ。はじめに言葉の表面の/カビをたわしでさっぱりと落とす。血合いの黒い部分から、言葉を正しく削ってゆく。言葉が透きとおってくるまで削る。つぎに意味をえらぶ。厚みのある意味をえらぶ。鍋に水を入れて強火にかけて、意味をゆっくりと沈める。意味を浮きあがらせないようにして/沸騰寸前サッと掬いとる。それから削った言葉を入れる。言葉が鍋のなかで踊りだし、言葉のアクがぶくぶく浮いてきたら/掬ってすくって捨てる。鍋が言葉もろともワッと沸きあがってきたら火を止めて、あとは/黙って言葉を漉しとるのだ。言葉の澄んだ奥行きだけがのこるだろう。それが言葉の一番ダシだ。言葉の本当の味だ」。

今日の聖書個所は、「ペトロ、信仰を言い表す」と題されている。マルコ福音書の分水嶺とも呼ばれる部分である。これまで悪霊によって口にされていた、いわゆる「信仰告白」、ナザレのイエスとは誰か、何者かについて、はじめて人の口によって、公に語られるのである。ペトロは一番弟子として、ここでその光栄ある役割を演じている。マルコの意図として、この個所が重要な位置を占めていることは、このパラグラフの直前に、「盲人の癒し」の物語が置かれている所からも、伺える。24節「盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります』」。この章句によって、マルコは読者に問うているのである。「あなたはあの方がちゃんと見えているか、どう見ているのか」。まさか電信柱や郵便ポストのように見えているのでは、ないだろうな、と念を押している風情である。

主イエスと弟子たち一行が、「その途中」つまり移動中に、ある問答が行われた、という。「途中」という何気ない言葉、しかしマルコはこの言葉にこだわりを持って用いている。「結果」ではなく「途中」に注目せよ、「結果」ばかりに目を奪われるな、「途中」をあなたはどう受け止め、どう見ているのか。すべてが見えている訳でも、全部わかっているのでもない。これからどうなるか、上手く行くか、破滅が待っているのか、見通しが立たず、ぼんやりしている。そういう途中に私たちの生命は置かれている。分からない、が分からないなりに、語り行動し決断する必要がある。そういう「途中」をどう歩むのか。できれば「楽しんで」行きたいが、「心配」や「不安」だけで費やしたくない。その途中で主イエスは弟子たちに問いかけるのである。「途中」とは「主から問われる時」なのかもしれない。

「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」。文化人類学者は、こういう他人の評価を尋ねる問いを発する行為は、古代人の自己理解のあり方を典型的に示すものだと言う。自分の目で、自分自身がどんな人間であるか、どんな価値があるかを考えるのは、現代の思考形態なのである。他人からの評価のみ、他人の噂だけが、自己理解のための材料なのである。だから殊更、他人の目を意識し、他人の評判ばかり気にする人は、古代的な感覚の持ち主だということになる。皆さんはどうか。

28節以下の弟子たちの答え、「エリヤ、ヨハネ、預言者のひとり」という表象は、おそらく当時の人々が、実際、ナザレのイエスについて口にしていた噂であろう。もちろん良い噂として。反発する者たちは、「大飯ぐらいの大酒飲み」とか「罪人の仲間」とか「ベルゼブルの一味」とか、随分の悪口をも語っていたのである。(福音書はきちっと記している)。ところが主イエスは、他人の噂だけでなく、最も近いところに共にいる、弟子たち自身の目を問うのである。こういう所がただの古代人ではない。

自分の目の前に主イエスがおられる。自分と変わりない人の姿で、共に道を歩き、共に食事をし、病人を癒し、福音を語っているその人が、問いかけるのである。「それでは、あなたがたは、わたしを何者だというのか」。これに答えてシモン・ペトロが(皆を代表して?)答える。「あなたは、メシア(キリスト)です」。おそらく最も古く、最も最初になされた信仰告白、初代教会の信仰告白の、そして教理の原点こそが、この言葉である。確かに「信仰」には「告白」が車輪の両輪のように、いつもくっついているものであるが、その根底には、主イエスの問いが先行して語られるのである。「あなたは、わたしを何者だと言うのか」、直接、主イエスが、今のこのわたしに、こう問われている、この心を受け止めることなしには、信仰告白は成立しないのである。

「信仰告白」をめぐるこの物語は共観福音書すべてに語られているが、それぞれの福音書で、随分の温度差がある。マタイとマルコを比べて見たら、違いは明らかである。マタイの方は、信仰告白をおこなうシモン・ペトロが称賛され、「この上に教会を立てよう」、さらに「天国の鍵を託そう」、とまで持ち上げられる。ところがマルコはどうか「御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた」、というのである。これはお褒めの言葉ではない、かえって注意され、厳しく口留めされた、というのである。「信仰告白」をなして、却って当の主から怒られるとはどうしたことか。

実は「だれにも話さないように」という言葉こそ、マルコ福音書のキーワードなのである。悪霊に、病を癒された人に、さらに弟子たちに、主イエスは「沈黙」を要求される。もちろんみんなおりこうさんに、主の言いつけを守ったなら、福音書は書かれなかったろうし、教会も、キリスト教も誕生していなかっただろう。皆、主の言いつけを無視して、いや、黙っていられないで、盛んに主イエスのことを皆に言いふらしたから、教会の今日がある。ではなぜマルコは殊更に、「だれにも話さないように」と福音書で語るのか。

その答えは、次の段落に記される。31節「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった」。この激しい言葉に恐れをなし、主をいさめようとしたペトロは、厳しく叱責されている。つまり、主イエスの十字架、そして三日目の復活を見ることなしに、主イエスは誰であるか、何者であるか、を語ることはできない、とマルコは強調しているのである。十字架抜きの信仰はない。

小林秀雄は、「信ずることと知ること」と題された講演の中で、こう語っている。「信ずるということは、責任を取ることです。(中略)信ずるという力を失うと、人間は責任を取らなくなるのです。そうすると人間は集団的になるのです。自分流に信じないから、集団的なイデオロギーというものが幅をきかせるのです。だから、イデオロギーは常に匿名です。責任を取りません。責任を持たない大衆、集団の力は恐ろしいものです。集団は責任を取りませんから、自分が正しいといって、どこにでも押しかけます。そういう時の人間は恐ろしい。恐ろしいものが、集団的になった時に表に現れる。」

ひとり、遠くからでもいいから十字架の下に立って、血を流して死んで行かれる主を見上げて、そこから主のみ言葉を聞き、反芻し、みわざを思い起こすことなしに、私たちの信じるところは成り立たない。そこから以外の信仰の言葉を、主は「話してはならない」と言われる。

最初に紹介した長田弘氏の「詩」の章句は、こうして閉じられる。「だが、まちがえてはいけない。他人の言葉はダシにはつかえない。いつでも自分の言葉をつかわねばならない」。

「あなたは、わたしを何者だというのか」。ダシのきいたわたしの言葉はあるだろうか。