聖書の世界パレスチナには、二つの海(湖)がある。そのひとつはいわゆる「ガリラヤの海」、古来「キンネレト、琴の海」と優雅な名前で呼ばれて来た湖である。もう一つは「死海」である。地上の土地の中で最も低い所、海面下430mに位置している。この2つの海は、一本の河、ヨルダン川でつながれている。ガリラヤ湖には、北方のレバノン,シリアの山地に源を発するヨルダン川が流れ込み,さらにここから流出して南下,死海に注いでいる。
ガリラヤ湖は、北方の山々の雪解け水を与えられて、湖水を満たし、そこから再びあふれ出てヨルダン川に豊かな水をほとばしらせ、下流へと下るのである。「ヨルダン」とは「水の流れている川」という意味であり、かの地では川はいつも水が流れている方が、珍しい。
ヨルダン川の大量の水は死海に注がれるが、そこからの出口はない。死海は只ヨルダン川から豊富な水を受けるばかりの湖である。しかし激しい乾燥地帯ゆえに、水分の蒸発量が余りに多く、付近一帯の地から染み出した塩分によって、塩分濃度30%もの塩湖を形づくっている。豊かに受けて、また豊かに水を注ぎ出すガリラヤ湖には、たくさんの魚や鳥が群れて、生命に溢れているのに、かたや豊富な水を受けるだけの死海には、生命の面影すらない。実に対称的な風景である。受けること、与えることの意味を思わず考えさせるような、自然の営みである。
今日の聖書個所は、主イエスの告別説教、あるいは遺言の最後の部分、「主イエスの祈り」が記されている。「説教」と名付けられるように、別れの言葉、挨拶も、締めくくりはやはり「祈り」をもって、というのが教会なのだろう。教会は、会議や協議でどれほど激しいやり取りがなされても、その終わりに祈って、アーメンを共に言うことができるなら、大丈夫だ、と言われる。すべて祈りによって始まり、祈りに終わる、つまり最後は「神に丸投げ」、というのが教会のまことなのである。
多くの聖書学者が、今日のテキストについて、一致した主張を為している。これは「大祭司の祈り」の形式であると。神殿の祭儀において、大祭司はイスラエルの人々のために、罪の贖いの祈りを捧げることになっていたと伝えられる。神と人々の間に立って、取り成しの祈りをするのである。丁度、私たちの教会の主日礼拝で、司式者が祈る祈りも、またそのような趣旨である。教会全体のこと、地域や祖国、世界のすべてに心を向け、人々に代わって神にあわれみを求めるのである。
今日の一連の祈りの言葉の中に、何度も繰り返される言葉がある。「与える」という言葉が一行に一回ずつくらい、多用されている。皆、同じ用語だから文体論的には芸がないと言える。それだけヨハネという著者は、ギリシャ語や不得意なのである。しかし、あえて「与える」を繰り返すのには、それ相応の訳がある。「与える」という言葉の主語は、「神」である。私たちは神に「恵み」を祈る。「恵みを与えてください」、これは決して失礼で高慢な願いではない。主イエスが、「わたしの名によって、何でも願いなさい」と言われたからである。
ところが主イエスの時代、「与える」のはそもそも人間の務めだったのである。古代のメソポタミアの神話に、「人間の創造」の物語がいろいろ伝えられているが、人間が造られたのは、神々のために食物を作り、供物として献げ、食べさせるためであった。そうして人間が神々に奉仕し、与えることで、ようやく自然の恵みが下されるのである。だから神々の縁日ともなれば、人々は祠や神殿に花を手向け、食べ物を備え、踊りや歌によって神々を楽しませ、恵みが下されるのを期待したのである。
ところが主イエスは、人が与えるのではなくて、神の方がすべてを与えるのだという。神はひとえに、「与える方」なのである。このギリシャ語の言葉は、薬を飲む時の「服用」という意味をも含んでおり、薬もたくさん飲んだら、よく効くだろうとめったやたらに飲んだら、大きな害となるように、何でもかんでも、むやみやたらに与える、ということではない。神の与えて下さるものも、必要な量を、必要な場合に処方されるということなのだろう。
「雨も雪も、ひとたび天から降れば/空しく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える」(イザヤ55:10)。そればかりか、私たちのために、ひとり子をも惜しまず与えて下さった。そのひとり子、主イエスは、十字架の道を歩まれ、永遠の命に至る道を開いてくださったというのである。
「与える」ということが神のみこころであり、「与える」ことで神はご自分を証しし、それがわたしたち自身の目に、はっきりと見えるように、主イエスにすべて与え、ゆだねられ、託されたのである。私たちは、神の恵みを受けるのに、主イエスというはっきりとした方向を与えられたのである。ではどうして、神は私たちに惜しみなく与えて下さるのだろうか。私たちには、何のいさおしをないというのに、何ができるわけでもないのに。嫌放蕩息子、娘のように、ただ心配させ、悲しませ、悩ませるような子どもであるというのに。
この祈りの文言の中に、大祭司ならではの言葉が見いだせる。6節「世から選び出して」。聖書の民イスラエルは、神の選ばれた特別な民である。イスラエルの祭りは、その恵みを繰り返し思い起こし、心に刻み、あらたに出発するための時である。そして大祭司は、神の選民とは何であるかを、人々に告げ知らせるのが、大きな務めなのである。古から伝えられた申命記はこう記している。7章6節以下「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」。イスラエルは欠け替えのない神の宝だという。どうしてなのか。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった」。それはイスラエルが他のどの民族よりも、弱く、小さく、見るべき大きさ、美しさを持たなかったからだ、という。イスラエルが優れているとか、強く頼りになり、信頼に足るから、とか利益を上げるから、というのではない。真逆だから、選ばれたという。
「弱く小さいがゆえに」、これは人間の選びの論理、基準とは逆行するが、神の選びは、しばしばこの通りのあり方で成し遂げられる。なぜそのような選びをなされるのか。人間の目からは全く不思議に見える。「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」、申命記はその選びの理由をただこれだけ記している。「ただ、あなたに対する主の愛のゆえに」。そしてイスラエルが片時も忘れてはならず、心に温めておかなければならないのは、ただこの一事なのである。「主の愛、あわれみ」という場所だけに足を置いて、そこに立つことが、イスラエルの「らしさ」なのである。他の人々は、それを目の当たりにすることによって、神の愛が小さな人間にどのように注がれるのか、神の愛によって生きるとは、どのようなものか、それによって何がもたらされるかを、深く知るようになるだろう。今、教会の宣教も、同じところで行われるのである。
或る作家が、重い病に倒れた時のことをエッセイに書いている。身体も動かせなくなった彼は、1年間の日付が当たり前のように印刷してあるカレンダーが腹立たしくてならなかったそうだ。自分にはもう未来がないと感じていたからである。彼はカレンダーを日めくりに変えた。今日という日があることだけを示す日めくりなら、彼は信じることが出来た。彼はその日1日生きたことを自分に言い聞かせ、1日の終わりに、日めくりを1枚ずつ破った。そうして、彼は少しづつ回復していった。
人は生きる時に、今日一日の希望が必要である。私たちは健康でいる間は、今日1日を生きていることを当たり前に思っている。それどころか、この先も元気に活動できることを前提に、将来の計画を立てたり、長期にわたる仕事を始めたりする。自分の力で自分に必要なものは、手に入れられると感じている。だがもし、この作家のように、突然倒れ、この先の未来がおぼつかなくなり、見通しが立たなくなったら、つまりいつもの日常が奪われたらどうだろう。今日という日は、全く別の意味を持ってくるに違いない。そして今日1日、与えられる神の恵みだけが確かなものであり、神の与えてくださるものだけで、自分を満たす他なくなる。「その日の苦労は、その日一日で十分である」と主イエスは言われた。この日の必要を、神は与えてくださるのである。