大阪の茨木市に、安藤忠雄氏が設計した教会がある。「光の教会」と名付けられている。毎週、国内外からの参観希望者も多い。会堂の建築途上で、屋根を作る費用が足りない。安藤氏はこう提案したらしい。「(礼拝は)一週間に一度だから、雨が降ったら、濡れて礼拝するのも悪くない」。実現すれば、天井のない礼拝堂という塩梅だったが、さすがに不都合だということで、屋根はつけられた。教会建築らしい逸話である。
神殿、神社仏閣には、大建築が多い。特に総本山ともなれば、やはり大伽藍で多くの人々をその下に収容でき、外に向かっての威容を誇る体裁のものが多い。やはり見た目の権威や風格が人間の心に与える影響の大きさを、伺うこともできるであろう。
ローマ・カトリック教会の総本山は言わずと知れた、ローマ・バチカンに建てられた「サン・ピエトロ寺院である。ここは聖ペトロの殉教地であり、その墓の上に建てられたとされる教会である。現在の教会堂は、二代目で、初代会堂は4世紀の創建と伝えられる。本来は、総本山ではなく、ローマ帝国キリスト教国教化の立役者コンスタンティヌス1世により、聖ペテロのものとされる墓を参拝するための「殉教者記念教会堂」として建設されたものである。
しかしペトロゆかりのローマの町も、時代の浮き沈みの中に翻弄され、1377年当時の人口は17,000人と推計され、衰退した1都市に落ちぶれていた。サン・ピエトロ大聖堂も老朽化が激しく、側壁が外れ、屋根は今にも落ちそうであった。また、当時の眼からするといかにも古臭く、「粗野な時代に建てられたもの」という酷評も残っている。現在見られる大聖堂の建設は、1499年に教皇アレクサンデル6世がサン・ピエトロ大聖堂の改築を思い立ち、1505年の秋頃に 教皇ユリウス2世によって改築の決定が行われたことによって始まる。そしてこの建築資金を賄うために発行されたのが、マルティン・ルターの「95か条の論題」でのテーマ「贖宥状」である。結局、サン・ピエトロ大聖堂の建築が、宗教改革の波をも生み出したともいえるだろう。
但し、いかなる神殿、大聖堂と言えども、人間の手になるものである。決して永久、永遠ではなく、いつかは崩壊し消え去る運命にある。紀元70年、ユダヤ戦争によってエルサレム神殿(ヘロデ神殿)は崩壊した。40年の年月を用いて、かのヘロデ大王が巨財を費やして改築した大建造物であった。特に地中海産大理石の切り石で、贅沢に表面を飾られた美しさは近隣諸国の評判であったが、その名物大神殿が、根元から覆されたのである。この出来事によって、ユダヤ人は離散の民(ディアスポラ)の民として、「神殿」の宗教から「書物」の宗教へと歩みを変えざるをえなかったのである。
既存の神殿、信仰の具体的拠り所が亡くなったしまったときに、やはり人は問うのである。神殿とはいかなるものか、見えざる神の住まいには、どんな意味と意義を持つものなのか。黙示録が書かれた当時、ユダヤ戦争の勃発によって、エルサレム神殿はその基礎までも破壊された。それを著者のヨハネは知っている。彼もまたここで「神殿」の意味を問うているのである。
ヨハネばかりでない、旧約の預言者で、壮麗なソロモンの神殿の崩壊を目にしたエゼキエルもまた、「神殿」とは何かを問わざるを得なかった。どんなに贅を尽くし、壮麗な建築物であろうとも、所詮、地上の、有限な人間のつくる建築物なのである。「バベルの塔」の物語のように、頂を天に届かせようとしても、その野望ははかなく費える。エルサレム神殿も同じであった。バビロニアの攻撃に、あっけなく崩壊したのである。
エゼキエル書40章以下に、「新しい神殿の幻」と題された預言の言葉が記されている。やがて建てられるべき新神殿の有様、構造や寸法が非常に詳細に記されている。パース、設計図が書けるほどのち密さである。特徴としては、完全シンメトリーの構造で、広々とした造作である。ところがこの神殿は、人間には建てることが出来ない。それはタテ、ヨコの寸法は記されているものの、肝心の「高さ」について、何も言及されていないのである。「高さ」がなければ、およそ立体にはならない。なぜエゼキエルは高さを記さなかったのだろうか。どう思われるか。
タテ・ヨコは、地上で生きる人間の現実の世界の象徴である。「高さ」こそ神の神たるゆえん、その象徴であろう。神の高さを、その高みを、人間が自分のものとすることはできない。実に聖書では、神殿は神の「住まい」、ではなくして「神の足台」なのである。主イエスは「祈りの家」と言われた。祈りこそ神の高みへと向かうものである。だからエゼキエルはあえて「高さ」を記さないことによって、人間はまことの神殿を建てることはできない、と暗に語っているのである。
このエゼキエルの考えを引き継いで、ヨハネもまた「神殿」とは何かを考えている。 ヨハネはエゼキエルの考え方をさらに一歩進めている。今日の個所では、新しい再建されるエルサレムについての言及がある。ここでもまた色彩感豊かに、その麗しさを表現する。もっとも、大祭司の胸にかけるエポデ(胸飾り)を拡大し、町一面に広げたような塩梅ではある。律法では、大祭司の権能と掌握、とりなしの象徴として、イスラエル12部族を宝玉によって象徴的にあらわしたものである。それがエルサレムの町全体が、エポデであるという。つまり元々、神殿の中という小さな場に仕えた大祭司の働きは、今や世界全体に広がるのであり、大祭司という人間の役割は必要のないものとなる。なぜならキリストが大祭司であり、神の国こそが神殿なのだから。
22節にこう語られる「引用」。実に大胆な発言である。ローマ・ギリシャのヘレニズム世界は、大きな神殿がいくつも建てられていた。神殿あってこその宗教、信仰であった。各神殿毎に縁日があり、その日に決められた宗教儀礼をおこなうことが共同体の務めであった。それでは自分たちはどのように信仰を守っていくのか。エルサレム神殿のなき今、教会は新しい神殿を建てるべく、努力すべきなのか。答えは「否」である。キリスト者はもはや「神殿」は必要としない。さらに「大祭司」をはじめとする宗教的ヒエラルキーも必要がない。23節「引用」、子羊こそ真の光。テゼ共同体が最初に建てた会堂は、程なく手狭となって人があふれたという。そこでブラザー・ロジェがしたことは、会堂の後ろの壁を壊して取り払い、サーカスのテントを後ろに広げたのである。閉塞した空間でなく、開かれて風と人の行き交う会堂、ひとつのヨハネの視点の具体化でもあるだろう。