作家井上ひさし氏の作品に『なのだソング』という面白い詩がある。こんな章句が羅列される。「なんとかかんとか、どうやらこうやら、しょうこりもなく、出たとこ勝負で、ちゃっかりぬけぬけ、破れかぶれで、いけしゃあしゃあと、めったやたらに」、言葉が湧き出る泉のようにあふれる「言葉の人」らしい豊かな表現であるが、この後に、すべて同じ言葉が続く、その言葉とは何か。答えは「生きるのだ」である。皆さんの生き方と通じるところはあるだろうか。
この『なのだソング』は、馬場のぼる氏の絵本を元にしたミュージカル、『11ぴきのネコ』の中で歌われる1曲だそうである。「雄々しくネコは生きるのだ/尾をふるのはもうやめなのだ/失敗おそれてならぬのだ/尻尾を振ってはならぬのだ/女々しくあってはならぬのだ/お目々を高く上げるのだ/凛とネコは暮すのだ/リンと鳴る鈴は外すのだ」。野良ネコの、ネコとしてのプライドを高らかに歌い上げたと言ったら大げさか。そして「なんとかかんとか、どうやらこうやら、しょうこりもなく、出たとこ勝負で、ちゃっかりぬけぬけ、破れかぶれで、いけしゃあしゃあと、めったやたらに」生きるのだ、と言葉は続けられて、最後はこう結ばれる「決して死んではならぬのだ/のだのだのだともそうなのだ/それは断然そうなのだ」。野良ネコとして生きる意味は、いのちの原点は、「死んではならぬのだ」という所にある、と宣言して閉じられる。痛快とも思えるが、私たち自身の生命の行方をも、考えさせられるような言葉であろう。生命とは、あれこれ理屈を捏ねるのでなく、今この時を生きることを迫って来るものだ、とでもいうように。
今日はテトスへの手紙を取り上げる。パウロが弟子のテトス(異邦人キリスト者で、パウロの弟子であり、彼の伝道旅行に同行し、使徒が病気や投獄で動けない時の本人の名代として教会の指導にあたった人物のひとりとされる)に、教会の運営上の指示や教示を与えている所から、古くから『牧会書簡』の一書とされて来た。聖書学者は、用語や思想的な傾向から、この著作はパウロの手になるものではなく、紀元2世紀に入ってから記された偽パウロ書簡と見なしている。それでもこの時代の教会が、ローマ権力や地域社会との関わり、教会内外の関係等、置かれていた状況がどのようであったか、教会がどのように振舞おうとしたかが豊かに伝えられていると言えるだろう。
但し、今日の個所は、文章の途中にあるが、文脈の流れを中断するような独立したパラグラフのような印象を受ける。1~3節までは、ローマ帝国の公権力との関わりについて、さらに教会の置かれた地域社会、そこに住んでいる人々(キリスト者ではない)との関係について、いわば定石通りの指示を与えている。即ち、2節「だれをもそしらず、争いを好まず、寛容で、すべての人に心から優しく接しなければならないこと」を勧めるのである。但し3節に「わたしたち自身もかつては、無分別で、不従順で、道に迷い、種々の情欲と快楽のとりことなり、悪意とねたみを抱いて暮らし、忌み嫌われ、憎み合っていたのです」と教会員に対しても、あらためてくぎを刺すような但し書きをしているのを考えると、「公認」ではないが「黙認」という程度には、教会が地域社会にしっかりと根を下ろしていることが推察できるだろう。「私たちもまた、かつては、彼らと同じく異邦人であったではないか」、これは古の聖書の民、イスラエルが繰り返し神から告げられた戒めを、想起させる言葉でもある。
8節以下は、今度は教会内部に生じている諸問題が意識されていると言えるだろう。9節「愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。それは無益で、むなしいものだからです」。やはり二世紀になると、教会の制度や教理が次第に整ってくるとともに、いろいろなことを主張する人々も出て来る。古代において「宗教」というものは、知的関心の格好の題材だったから、教会内でもいろいろうんちくを傾ける輩や、かなりオタク的なこだわりを持って弁論したがる輩も、多くあったのだろう。ここで「系図の詮索」とあるのは、詳細はつかみにくいが、万物の生々流転について、曼荼羅のような神秘的イメージで滔々と自説を論じ、人々を煙に巻いて優位に立とうとする者もあったのだろう。そこから教会の人間関係も、世の集団のように派閥が形成される。人間の集まる所ではどこでも同じことが生じるものである。
10節「分裂を引き起こす人には一、二度訓戒し、従わなければ、かかわりを持たないようにしなさい」。「かかわりを持つな」というと「絶縁・無視しなさい」という意味になるから、あまり良い翻訳とは言えない。直訳すれば「断りなさい」つまり「その主張には賛同しない、とはっきり言いなさい」ということである。要は教会であっても、人間関係において、態度をはっきりさせることを求めているのである。ただ10節「自ら悪いと知りつつ罪を犯している」という洞察には、考えさせられ。要は「自分でもどうにもならない(わかっちゃいるけど)」ということだが、これで人間はいかに苦労することか。もっと楽に行くだろうに、それでも簡単にそうならないのが、これまた人間なのである。
こうした教会を取り巻く内外の状況に対して、どうあるべきか、を示唆するのが、この間に挿入されている今日のテキストなのである。聖書翻訳によっては、この部分だけ、「韻文」(詩の形式)として標記しているものもある。つまり、この文言は、当時の教会で唱えられていた「典礼文」が引用されていると考えているのである。確かに、ここに記されているのは、「バブテスマ(洗礼)」の際に、受洗志願者への勧告として語られたような趣を持つ文言である。「聖霊による新生」、「新たに造り変える新い」、「聖霊の付与」、「永遠の生命」等、バプテスマについての神学的理解が尽くされているからである。
そしてこれらの理解に先んじて、このような文言が語られる。5節「神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました」。ここにこそ私たちの信仰の原点があることを、他に増して強調するのである。「御自分の憐れみにより」、すべてはここから始まったことを告げている。人間と人間との関係は、決して常になめらかに真っすぐに整っているものではない。いろいろな思惑が交錯し、駆け引きが行なわれ、策略さえ繰り広げられる。その中で私たちもまた苦しむのであるが、そこに神は、手を伸ばされるのである。4節「わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れた」、これこそクリスマスの出来事である。そしてすべて教会はここから始まるのである。