皆さんは「祈りを捧げる幼いサミュエル」という題名の絵画を目にしたことがあろう。英国の画家ジョシュア・レイノルズ(1723-1792)によって、1777年に制作された油彩である。現在はフランス、モンペリエにあるファーブル美術館に収蔵されている。小さなかわいらしい子どもが、真剣な面持ちで上を向いて、手を合わせて祈っている、そんなあどけない姿を、闇の中に浮かび上がらせている構図の絵である。キリスト教の幼稚園や病院などの壁に、複製画がよく掲げられており、観る人をほっとさせる。聖書の一場面を描いた絵画の中でも、よく知られている一幅であろう。
しばらくの間、サムエル記が取り上げられる。最後のイスラエルの士師であるとされるサムエルの名が被せられている書物であるが、実際は、イスラエル統一王国の覇者、ダビデの台頭と王位継承の経緯が語られる歴史著述である。聖書は、非常に長期にわたる伝承の歴史の集大成的な書物であるが、サムエル記中に語られている王ダビデにまつわる叙述は、今日、旧約の中で最も早期に文書化されたものとみなされている。
他方、サムエルは最後の士師として、さらにイスラエルが王国となる道備えをした革新的人物として、古い時代と新しい時代の橋渡しをする、いわば「間に立つ者」としての役割を担っていると言えるだろう。「時」は川の流れのように、絶え間なく流れているように思えるが、その中で繰り広げられる人間の営みは、滑らかなグラデーションをもった推移ではなく、曲がり角を曲がる如く、紆余曲折の道をたどるが如く、節目を持って緩急に歩みを進めるような道程である。その節々に、神から人が立てられて、決定的な役割をおこなう、ここに聖書の歴史観があるだろう。箱舟を造営したノア、出エジプトで民を導いたモーセ、そして王国成立の立役者となったサムエル、さらに救い主の道を備えたとされる洗礼者ヨハネ等、これらの人々は皆、「間に立つ者」達であった。
サムエル記の冒頭には、サムエルの出生の経緯、さらにその後の生育の有様、人となりを語る物語が記される。そして3章には、彼がイスラエルの父として人々の信頼を得るに至るその発端が記されていると言えるだろう。子ども、とりわけ乳児や幼児期にまつわる事柄を、ここまで詳細に記している文学は、古代にあっては滅多にないことである。それだけサムエルに対する人々の愛着と思い入れが強かったということであろうか。今日の物語にはまさにそのような雰囲気が漂っている。
サムエルの誕生の発端は、母ハンナが、不妊であったことを悩み、シロの祭司、エリの聖所で、酒に酔っていると誤解される程に長く祈願したことに始まる。この熱心な祈りを神は聞かれて、ハンナは子どもを授かるが、神によって与えられた賜物と考え、その子をエリに託し、神殿に置いて養育されることを望んだ。そうしてサムエルは祭司エリのもとで、養子のように暮らすこととなった。
ところでエリには二人の息子たちがいたが、彼らは「ならず者」で、その祭司の職務を軽んじ、自分たちの腹を満たすために不正を行っていたとされる。エリの息子たちではなく、血のつながりのないサムエルに、エリの嗣業が委ねられることについての説明譚だが、これは象徴的にイスラエルの過渡期の有様を告げるものであろう。ハンナの祈りを聞かれた主の、憐れみによって誕生したサムエルが、崩壊寸前の祭司エリの家を救うために立てられる。即ち、不法に満ちたエリの息子たちの振る舞いは、部族連合体としての古いイスラエルがもはや機能不全に陥っていることを示唆し、全イスラエルを集約する新しいきずなが必要な時代が来ていることを、暗示しているのであろう。後のダビデの台頭である。ダビデもまた、ベツレヘムの羊飼いの末っ子に過ぎなかったのである。
そこで今日の聖書個所、3章である。先にジョシュア・レイノルズの作品「祈りを捧げる幼いサミュエル」を話題にしたが、その原案とされた物語部分である。主なる神は、三度サムエルを呼ばれた。その度に幼いサムエルは起きてエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言う。これが三度も続きエリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、彼に言う。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ」、サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕は聞いております。」
ごく幼い子どもは、大人の目から見ると奇妙な振る舞いをしたり、夢のような不思議な話をすることがある。夜、闇の中でひとり目を覚ましており、おしゃべりをしたり、笑っていることもある。これが何の働きによるものかは、知る由もないが、こういう経験をすることで子どもは心を育て、精神の豊かさを身に着けて行くのかもしれない。「親の目から隠れたところで心はつくられる」と語った教育者もある。
この時のサムエルの発した言葉を、最初は寝ぼけているのだろうと思ったエリだが、それが3度に及ぶや、ただ事ではないと悟ったのは、さすが神に仕える宗教者である。神の呼びかけは、余人には決して知りえることのない、ただ神とその人の間だけの事柄である。余人の全く介さない所で生じる事態を、それとして認めて、そっとしておくという姿勢が、求められるのである。この時のエリの教示は、子育て中の親を始め、子どもの成長を手助けする者たち、すべてが心を留めなければいけない姿勢であるだろう。
今日の聖書個所で、印象的な情景が記されている。3節「まだ神のともし火は消えておらず」、出エジプト記27章20節以下には、主の幕屋で、掟の箱の前に終夜点すべき、「常夜灯」の規定が記されている。この灯は、夕方から夜明けまで点されることが規定されている。夜の闇の中でも、主が共にあることを証しする灯である。漆黒の闇の中でも、微かに灯る神の臨在の灯は、たとえ小さくても、人々に大きな安心を与えたであろう。幼いソロモンにとってもそれは同じであっただろうし、エリの息子たちが不法にまみれる中でも、部族共同体のイスラエルが、崩壊の危機にある状況でも、主の灯は消えていないことが、暗示されているのであろう。私たちもまた内外に様々な危機を抱えるが、そこに神の常夜灯が点され、その灯が消えていないことを、深く思い起こしたい。そして小さな子どものサムエルが呼びかけられたように、御心を為すために、今も私たちを呼ばれるであろう。