教会創立47周年を心からお祝いしたい。歴史を繙けば、1976年6月に鶴川北教会は、日本基督教団の正式な伝道所として位置づけられて、教団教会としての歩みを始めた。この年の一番の話題はロッキード事件、「記憶にございません」が流行語になる。子門真人氏の歌う「およげたいやきくん」の大ヒット、またヤマト運輸が個別宅配サービス「宅急便」を開始、初日の引受個数は2個、などという話題もあった。
「牛歩千里」という諺があるが、歩みの鈍い牛でも、歩み続ければ、千里の道を行くことができる、時間はかかるだろうが。(牛は決していつも鈍い訳ではない、家畜牛でも、本気で走れば40キロ位で走れる。オリンピック選手並みである)。教会は、「神様はお急ぎにならない」、そうした合言葉の所であるから、「牛歩千里」の如く、ゆっくりと歩んでいる(もしかしたら止まっている)ように見えるだろう。しかし本当は、どのくらいの速さで、というよりは「どこに向かって」という方向が大切なのだろう。私たちの教会は、この47年でどこに向かおうとしていたのだろうか。
礼拝が始められたその発端について、故渡瀬良通氏が『十年の歩み』の中にこう記している。「さしあたり隔週の聖日の午後、礼拝を持つようにしようということになった。それが1970年11月15日からであり、家庭集会開始後一年八ヵ月のことである。礼拝の出席者も大人だけで10名から多いときで15名を越えることもあり、我家の居間から台所まで座ぶとんを敷き、座らねばならなかった。そして教会的歩みの始めとして聖餐式をしていただくことになり、そのため大きなパンを焼き、それを(皆で)割いて配餐していただき、大小さまざまなグラスを集め、我々のためにキリストが流し賜った血を表すぶどう酒をいただいた時の感激を思い起すことができる」。週報に「伝道開始日」として記される日の様子が、鮮やかに切り取られている。自分たちで大きなパンを焼いて、それを共に割いて、またありあわせの不ぞろいのコップを並べて、それを杯にしてぶどう酒をいただき、主の十字架を偲ぶ、この聖餐の様子に、すでに「私たちはどこに行くのか」という漠然とした方向が見えているのではないか。皆さんはその方向を、今、どのように見ているか。
さて、この創立記念礼拝に与えられた聖書個所は、使徒言行録8章後半のテキストである。主の天使(聖霊)がフィリポに命じる。「ここをたって南に向かい、エルサレムからガザへ下る道に行け」。ここで著者ルカは短く注釈を施している「そこは寂しい道である」。この章の始めに、ルカはエルサレムでの大迫害について記している。宣教は主イエスの十字架の町、エルサレムから始まった。主イエスは大神殿のあるその町で排斥され、迫害され、十字架の上で亡くなられた。弟子たちはエルサレムに留まり、ここに最初の教会が誕生した。神殿詣でに訪れる人々に語りかけ、宣教を行ない、それが実りを結んだ。しかし、程なくして、大迫害が起こり、教会に集められた人々は、散らされて行ったのである。1節「その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った」。せっかく集められた者が、再び散らされる、これは人間の感覚からすれば、寂しいことである。「そこは寂しい道である」という短い言葉を、著者は深い思い入れと共に記しているのではないか。
エルサレムからガザに至る道、皆さんは「ガザ」という地名を耳にして思い起こすことはないか。パレスチナの過激派ハマスが、ロケット弾を打ち込んだ、その報復としてイスラエルがガザを空爆した、というニュースがしばしば伝えられる。現在、パレスチナ自治区のガザは、古い町である。「寂しい」とは、その道をたどる人が居ない、すたれている、災害等によって、通行不能になっているという具合に、私たちは、外的な要因をすぐに考えるが、ガザとエルサレムは、旧約の時代から、対立抗争の間柄の町々である。ダビデ王朝では、ペリシテ人が自分たちの根城、根拠地にしていた町である。ルカの生きていた時代も、そして現代でも「寂しいところ」、人と人との行き来ばかりか、心の交流すらも絶えてしまった、「断絶」の道という意味合いで、この短い章句が加えられていると思われる。
フィリポはその道に遣わされる。教会の宣教が、どこに向かって行くのかを、指し示そうとする言葉であろう。「寂しいところ」とは、単に、人のいないところ、栄えていないところ、ということだけではない。主イエスを信じて生きるというのは、やはり主が歩まれた方向に自分も目を向け、そちらに向かって行こうとする生き方を目指すことになるのではないか。それを象徴的に言えば「寂しいところ」、つまり多くの人から称賛を浴びたり、評判になることはないにしても、自らの達成感や自己実現を得るというところとは少し違う生き方ではないか。主イエスは「わたしに従いたいと思う者は、自分の十字架を取り、わたしに従いなさい」と言われたが、主イエスと全く同じくゴルゴタに十字架に付けられる、ということでないしても、「自らの十字架を担い」、という面と「寂しい道」とはどこかでつながっている気がする。「寂しい道」というのは、「お手々繋いで」ができない、自分だけしかたどれない、いうことであるから、自らの十字架の道、とも言いかえられるであろう。
主イエスはフィリポに、彼だけにしか行くことができない道へと送り出す。それはエチオピアの女王カンダケに仕える宦官の所に。エチオピアとあるが、現代のスーダン辺りを指すだろうと学者は見なしている。この半世紀以上も内戦に苦しみ、軍事独裁政権の抑圧、難民、自然災害による生活の苦境等、困難さは枚挙に暇がない。ついこの4月にも国軍と民兵組織の対立により首都ハルツームでの爆撃が繰り返され、邦人のあわやの救出が報道されたことは記憶に新しい。国連機関によると、この国では、今回の戦闘以前から人口の3分の1、約1580万人が人道支援を必要としているという。
自国スーダンからエルサレムまで、約二千キロの道のりである。女王付きの高官であるのでおそらくは、ユダヤに公使として女王からの親書でも携えて上ったのだろうか。宦官は王宮の秘書として様々な雑用をこなしたから、諸文化や海外事情にも詳しい者たちが多かったろう。この時代には、ユダヤ経典(旧約聖書)はギリシャ語に翻訳されていたから、地中海周辺世界では、教養の教科書のようにも見なされていた。
この人物は、公務の帰りがけに、世に名高いヘロデ神殿を参拝した折に、ユダヤ経典の分冊、ギリシャ語訳されたイザヤ書を何らかのつてで手に入れたのだろう。長い帰途の旅路の縁に、馬車に揺られながら文字をたどっていたのだろう。昔から読書に良い場所は3か所あると言われており、そのうちのひとつが車上であると言われる。28節「彼は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していた。 すると、“霊”がフィリポに、『追いかけて、あの馬車と一緒に行け』と言った。フィリポが走り寄ると、預言者イザヤの書を朗読しているのが聞こえた」、彼の心を捉えたのが、53章「苦難の僕」の個所であったらしい。初代教会でもこの個所の章句を巡って、盛んに議論が繰り広げられたのだろう。やはり教会にとって、主の十字架、受難がもっとも信仰の中心であったということである。
フィリポは口を開き、聖書のこの個所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。すると宦官は、「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」 そして、車を止めさせた。フィリポは彼に洗礼を授ける。「彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた」。非常にテンポと歯切れのいい文章が綴られている。「宣教」というものが、いわば「さわやかな風に乗って」という雰囲気で語られているのは見事である。特に「主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた」という言葉の中に、宣教の本質と方向が語られているのではないか。み言葉を伝えた者の姿は消え去る、しかしそこには喜びが残るのである。
コロナ禍の中で、この教会の礎を築かれて来た信仰の先輩たちを、何人も天国にお送りした。この教会の影もかたちもない時代に、これまた見えないみ言葉に仕え、見えないみ言葉に押し出され、み言葉を伝えた信仰の先達は、今は私たちの目には見えない。
教会の古い季報の頁をめくっていたら、まだ壮年の頃の宮部光兄の文章が目に留まった。非常に印象的な言葉である「真剣に生きようとすれば疲れる。早く眠りたい。それでもなお眠ろうとするものを、内たる魂が揺り動かす。『真面目に生きることは疲れること、適当にやればよいではないか』との声がする、しかし一度、福音に接した魂は疲れと憂いの中にあっても、なお聖書の真理に魅かれ、導かれる」。このような思いで、教会のために労された人々を覚えたい、「姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた」。そこから今も残されている福音の喜びを噛みしめたい。