こんな小話がある。ある人が悪魔に誘われて、秘密の場所に連れて行かれる。そこにはたくさんのろうそくが点されている。長いの短いの、勢い良く燃えているもの、消えそうなものまで、さまざまな火が灯っている。「これは何か」と尋ねると、悪魔はにやりとして「一人ひとりの人間の寿命だ」とお定まりのことを言う「消えたら、そいつの人生も終わる」。「ちなみに、この短くて今にも消えそうなろうそくが、お前さんのだ」。「何とかならないか」と願うと、悪魔は「俺様の力をもってすれば、容易いことだ」と新しいろうそくを継ぎ足してくれた。再び赤々と燃え上がった火を見て、その人は安堵した。悪魔は言う「いわば、今日がお前の新しい誕生日というわけだ、お祝いに歌を歌ってやろう」、と悪魔はおなじみの歌、“Happy Birthday”を歌う。歌い終わって「誕生日、おめでとう」と祝福する悪魔の声に合わせて、その人は思わず、「ふうっ」息を吹きかけて、ろうそくの灯を消した。悪魔の誘惑は巧妙である。
待降節第一主日、アドベントの最初の日曜日を迎えた。アドベント・クランツに最初の光が点された。今日から日曜日ごとに、光が一本ずつ増えていき、灯かりが増して行く。そしてクリスマス礼拝においては4本のローソクが明るく輝く。クリスマスは、その日だけのお祝い、一夜限りのお祭りではなく、長い期間をかけて覚えられ、結果だけでなく、その途上で祝われるものなのである。待誕節を通して、神の救いの約束を覚え、待ち望む「心」高めていくのである。今は12月だから、一年の内で最も昼の時間の短い季節である。そして最も昼の短い冬至に、私たちはクリスマスを迎える。季節は、段々に闇の深まる時をたどり、他方アドベント・クランツの光が少しずつ増えていく、闇と光、これもまた、聖書の証しする神の救いの物語を、目に見える形に表したものである。但し、その光は、ろうそくの灯である。「吹けば飛ぶよな」という如く小さな光ではある。それが大きな神のみわざを指し示す縁となるのである。
今日はイザヤ書52章から話をする。クリスマスは、長い期間をかけて覚えられ、祝われると申し上げた。それを聖書に即して言えば、旧約から主イエスのご降誕に至る長い長い道のり、即ち、イスラエルの歴史を振り返り、思い起こすことでもある。神は人間に無関心に、決して手をこまねいていた訳ではない、何も救いの出来事を起こさなかった訳ではない。絶えず神の民に呼びかけ、救いの計画を立て、みわざを行ってこられたのである。
今日のみ言葉を語っている預言者は、「第二イザヤ」と便宜的に名付けられている無名の預言者である。バビロン捕囚というイスラエルの苦難、苦しみと嘆きの中で、人々に神の言葉を語り、大きな慰めを告知した人である。生憎、名前が伝えられていない。これに深く思いめぐらせられる。結局、いつまでも残るのは何か、人の名前、つまり人間の栄誉や人格、業績といった諸々の付加価値は、時の流れのかなたに追いやられ、忘れ去られる。もし残るものがあるとすれば、ただ永遠なる「神の言葉」だけである。しかし、人がそのみ言葉につながって生きたなら、その人の生命も、み言葉と共に永遠に生きる、ということであるだろう。
ここで預言者は、イスラエルの歩み、歴史を、本当に短く、これ以上簡単にはできないくらいに、簡潔にまとめていることに留意したい。イスラエルの歩みとは何か。4節「主なる神はこう言われる。初め、わたしの民はエジプトに下り、そこに宿った。また、アッシリア人は故なくこの民を搾取した」。かつてエジプトで、自分たちの先祖が奴隷だったこと。労役の重さに呻きと嘆きの声を上げたこと。時代は下り、アッシリア人よって、北イスラエル、国の半分が滅亡し奪われ、人々はアッシリアへと連れ去られ、歴史の舞台から彼らは姿を消す。アッシリア捕囚、「イスラエルの失われた10部族」と評される出来事があったのである。
さらに預言者は問う。「そして今、ここで起こっていることは何か」。「バビロン捕囚」である。北イスラエルの滅亡後、二百年足らずで、南王国、ユダの国もまたバビロニア帝国によって滅ぼされ、麗しい神の栄光の町、エルサレムはすべて破壊され、住民は虜囚として異郷の地バビロンに追放された。一体、イスラエルの歴史とは何なのか。神の民と呼ばれるあなたがたの歩みとは何だったのか、無名の預言者はそう問うのである。
神を知らぬ人、神に無関心な人間たち、神に逆らう者たちならば、神から罰を受けてひどい目に会う、滅ぼされる、というのなら「一応の筋」は通っているかもしれぬ(但し、そんな神は願い下げであるが)。イスラエルは他ならぬ神から選ばれた民の国、神が慈しみ、愛する人間たちである。その我々が、長い歴史を通して繰り返し経験したことは何か。この苦難は何か。なぜ神はこれほどまでに自分たちを痛めつけるのか、なぜ自分たちはこんなに苦しまねばならないのか。「それはあなた方の罪のゆえだ」と言うかもしれない。「自己責任」ですべてことを済ますなら、「神の救い」はどこにあるのか。この日本列島は、世界の全ての自然災害の10%を担保していると言われる。「地震雷火事おやじ」の災厄に繰り返し見舞われる、世界でも稀有な国である。だから、神から嫌われ、呪われている国なのだ、と言ったらどうか。「馬鹿なことを言うな」、と厳しいお叱りを受けるであろう。
しかしイスラエルの一番の問題は何か、「神に救いはどこにある」と嘆きながらも、神の救いを求め、神のみこころを願い求めるなら、それはまさしく信仰の最も純粋で、まっすぐな姿である。それでも自分の置かれた場所に、残された恵み、そっと備えられた神の贈り物を探すなら、そこから事態は何ほどかの変化がもたらされるであろう。ところが捕囚のイスラエル、今は捕らわれの民の心はどうなっているか。
今日のテキストに、同じ言葉が二回繰り返される。「ただ同然」、「ただ同然で売られ、ただ同然で奪い去られ」、ただ同然とは、価値がない、意味がない、存在する必要がない、不要、良い所はない、無駄ということである。聖書の民は、自分たちがまったく 何の価値もなく、意味もなく、もはや余計な者、ごみとして自らを受け止めているのである。確かに、そうだろう、故郷を奪われ、家族を奪われ、神殿を奪われ、それまでの財産も生計をも奪われたのである。「ただ同然、ごみくず同然」、今、預言者はこのように捨て鉢のように語る人々の目の、前に立っているのである。
こんな話題を耳にした。「誰かのごみは誰かの宝物」という諺がある。その諺のようにオランダで“Goedzaq”と呼ばれる袋がある。オランダ語で「お節介」という意味なのだそうだ。「自分はもう要らないけど、もしかしたら誰か欲しい人がいるかもしれない」と思う人が、その袋に入れて道端に置いておくと、道行く人はフリーマーケットに来ているかのような感覚で持ち帰って使う、いわば「小さなお節介」。欲しい人が現れない可能性もあるが、その場合も特に面倒なことはない。ゴミを回収しにゴミ収集車がやって来るように、残ったGoedzaqを回収しに中古品業者がやって来るだけだ。回収されたモノたちはもちろん、業者の手によって販売されたりリサイクルされたりする、という。
「ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらずに買い戻される」というみ言葉を、皆さんはどう読むだろうか。つねに金銭に置き換えて、いくらの値段が付くから価値がある、安い値段だから価値がない、という具合である。一事が万事、すべて金銭や数字に置き換えられて価値が判断されるなら、「人間の価値」はどう考えたらよいのか。「ただ同然」というみ言葉は、「決して値段が付けられないもの」という意味合いを含む言葉である。自分自身を含めて、人間を軽蔑する人にとって、生命などどうでもいいし、何の意味や価値もなくなる。だから戦争で沢山の無差別の人殺しをも行えるのである。人間は、そもそも値段の付けられないものを前に、身勝手な値付けをして、さらにそれを「ただ同然、ごみ」と見なして踏みにじろうとする、そこに人間の罪の典型があるだろう。
生命の価値を、ほんとうに受け止めて、その重さを知る者は、実は人間自身ではなく、それをお創りになった神なのである。それゆえ「銀によらず買い戻される」、金銀という金銭、この世の価値では、測り得ない重さを知る方が、私たちの間におられるのである。6節「それゆえ、わたしの民はわたしの名を知るであろう。それゆえその日には、わたしが神であることを、『見よ、ここにいる』と言う者であることを知るようになる」。
「人生という道に迷った青年が気まぐれに乗った横須賀線で海辺のホテルにたどり着く。支配人がこの青年にどういうわけか親切にする。出世払いでホテルに住まわせてくれる。金を貸してくれる。青年はここで小説を書き始める。結局、約7年、このホテルで暮らす。そして新進女優に出会い…。絵空事みたいだが、本当らしい」(11月6日付「筆洗」)。先日73才で世を去ったある作家の追悼記事である。「ここにたどり着かなかったら作家にはなっていなかっただろうと振り返っている。なぜホテルの支配人は青年に手を貸したのだろう。『どうして親切にしてくれたのだろう。今考えても不思議でしかたない』(『なぎさホテル』)とご自身も書いている。支配人ばかりではなく、人をひきつける人だったようだ」。ある作家仲間からの作家評、その人の作品評が「強靱(きょうじん)なる弱さ」ただし、その弱さにはあくまで「強靱なる」がつく。
ろうそくの火は、吹けば飛ぶような光であり、一息で消えてしまうか細い、弱い光である。しかしその小さな光は、人間の心を照らし、その行く先をも示し、神のおられる所をも告げるのである。あの飼い葉桶には、煌々たる光は灯っていないが、どこに人間の価値や幸いがあるかを、如実に証しするのである。