「真理の霊が来る時」ヨハネによる福音書15章18~27節

こういう新聞記事を目にした。「けんかの後で、和解に向かう『仲直り行動』を取る動物はかなり多いそうだ。謝罪のキスをするというチンパンジーはもちろん、イヌ、オオカミ、ウマ、ハンドウイルカ…。仲直りができる鳥や魚もいるという。群れを形成して暮らしてきた動物にとって仲直りには利があったのだろう。群れの中でいつまでも敵対していては落ち着かないし、周りも迷惑。和解の術(すべ)を進化の過程で身に付けていったと考えられる。反対にペットのネコは仲直りの傾向がないそうだ。野生のネコの原種が群れをつくらなかったことと関係があるようで争いの後、どうするかといえば、相手と単に距離を置くだけ。確かにそんな場面を見たことがある」(4月16日付「筆洗」)。

これは最近の国際情勢をめぐるコメントなのだが、「長く敵対してきた両国に仲直りを期待するのは無理な話とはいえ、せめてネコのやり方ぐらいはできないか」と提言を付している。「わたしらはもっと賢いよ」という声なき鳴き声も聞こえてきそうだが、相互が自発的にそれぞれに歩み寄れれば越したことはない、が意地の張り合いでにらみ合ったまま、ということもよくある。けんかの後の「和解」には、間に入って仲を取り持つ誰か、何者かが必要となる場合が多いものだ。その「仲裁役、仲介役」を降りる、もうごめんだと放棄するのも、近ごろの流れである。但し、けんかもいい加減にしないと、当人同士どころか、周りの人間、更にそれに連なる他所の者も、有象無象の痛手を被るというのが、現在のグローバル世界の図式なのである。

今日の聖書個所は、13章の「洗足」の記事に続く主イエスの「告別説教・遺言」の部分である。ここには鍵語と言ってもよいほど「憎む」という単語が沢山用いられている。ここにはヨハネの教会を取り巻く状況が、強く読み込まれているのであろう。教会が内外の激しい「憎しみ」に取り囲まれている。だからここには人間の「憎しみ」を巡って、すぐれた洞察がなされているとも言えるだろう。

まず周囲の共同体社会からの迫害が挙げられる。向こう三軒両隣ばかりか、住んでいる地域、町や村全体の人間が皆が顔見知りで、繋がりを持って生活が営まれているのである。毎日毎日、という訳ではないが、世間から突然、地震のように、降ってわいたように、激しい迫害の嵐に見舞われる。その底に、共同体の輪を乱す者たちへの根拠のない不信感、嫌悪がある。平穏ならば大目に見られるが、一度、良くないことが起れば、異端者が標的にされる。それで石を投げられ教会が破壊されることもあったろう。食べ物を売ってもらえないこともあったろう。

世間ばかりではない。教会の中ですら人間の憎しみ、不寛容がある。ヨハネの教会には、どうも深刻な不和があったらしい。ヨハネの手紙は、そうしたグループ間の激しい対立、争いがあったことを伝えている。反対派を追い出し、教会にバリケードを築いて、教会に入れないようにさせる、と言うこともあったらしい。どうもヨハネ自身も一時期教会から出入り禁止になったようだ。そしてその対立の原因は、ひとえに「信仰」理解の違いなのである。「信じる」というレベルにおいて「憎しみ」があふれる、ここには悲しいかな、人間の本質が表れている。しばしば強固な信念は、かたくなさや偏狭さを生み出すのである。本来ならば「信じる」から、慈しみや赦しが生まれるはずである。そのような「神」を信じるのであるから。しかしそこで慈しみや赦しでなく「憎しみ」が生まれて来ることに、人間の罪の姿がある。だから「憎しみ」は根源的に神に向けられるものなのである。

だから震災の痛み、悲しみと嘆きの中に、全く自分とは利害関係を持たない人々に対して、それも傷ついた人々に、誹謗中傷が投げ掛けられるということが起こる。「井戸に毒が投げ込まれた」「動物園のライオンが逃げた」「被災地に窃盗団が入った」などと悪意に満ちたデマが投稿され、今も後を絶たない。因みにこれらの誹謗中傷は、つい最近の震災の中で、ネットに記された発信である。さらにそれがエスカレートして、テロとして無差別に人の命を奪い、大きな不安と懐疑と更なる憎しみをかきたてる。それは慈しみや赦しの神に向かっての挑戦であるとも言えるだろう。どうも人間は寛容の神よりも、報復の神、仕返しの神が好みらしい。

そもそもその「憎しみ」の理由は何か。なぜそのように人は憎み、憎み合うのか。どんなに悪いことをしたのか。普通、余程何か恨みを買うようなことがなされたから、と考える。ところがヨハネはその理由について、こう記す。25節「人々は、理由もなく、わたしを憎んだ」。詩編に何度も記される「ゆえなく憎まれる」という言葉を引いて、憎しみの理由を説明する。詩編の多くの詩が「嘆きの詩」であり、その嘆きの訳が「ゆえなく」つまり「理由がなく」ということである。法律的には「奸計、計略」に陥れられて、無実の人が冤罪に悩むということであるが、そういう無実の人を罠にはめるということが、聖書の時代にすでに起こっていたことに心が重くなる。同時に、人為的な事柄ばかりでなく、地震や嵐や干ばつなどの災害や戦争、不運、不条理によって自らの身、あるいは家族の身の上に重大は危機が訪れることもしばしばだったのであろう。それが「理由もなく、憎まれる」という詩編の言葉の内実である。私たちの人生は、不条理によって、苦しむのである。

詩編の詩人たちは、不条理に苦しむ時に、ひとつのことを願い求めた。それは「弁護者」がいてくれることである。不条理の苦しみは、ただ肉体が痛み、苦しむだけではない。心の、魂の痛みや苦しみでもある。不条理に苦しむ人は、あのヨブのように、何か罪を犯した報い、神からの罰とみなされたからである。だから、自分に代わって自分の無実をはらし、罪のないことを証してくれる有能な弁護者を求めたのである。(すでに古代ローマでは弁護士が存在し、身分の低い者のためには無料で奉仕したと伝えられる)。そしてその有能な弁護士とは、神ご自身なのである。

ゆえなく憎しみを受ける信仰者のために、主イエスは26節「弁護者」を遣わしてくださることを約束される。それは「真理の霊」、即ち聖霊だという。聖霊とは「弁護者」なのである。この弁護者パラクレートスという言葉について、内村鑑三はこのように解き明かす。「パラクレートスとはギリシャ語である。『訓慰師(なぐさめるもの)』と訳され、『保恵師』と訳されている言葉である。意味の甚だ深い、慰めの甚だ多い言葉である。パラクレートスの元の意味は、『側(そば)に招く者』または『側に招かれる者』である。すべて困難の場合において、慰めのため、また援助のために側に呼び寄せる者を、そのように称したのである。ゆえに法廷における弁護士のことをパラクレートスと言った。彼は裁判官の前で、罪人の側に立って、彼に法律上の援助を供する者であるからである。『側に立つ者』という意味から、『慰める者』という意味が出てきたのである。終生の伴侶、困難(なやめ)る時の最(い)と近き助援(たすけ)(詩篇46篇1節)、それがパラクレートスである。そして、キリストは私達のパラクレートスとなられることを約束されたのである」(『聖書之研究』114号)。

この4月からの朝の連続ドラマの主人公のモデルは、女性として初めて弁護士、判事、裁判所所長となった三淵嘉子氏という人物である。大学を卒業した年、1938(昭和13)年の11月1日、司法省は、彼女、および同級の中田正子氏、そして1学年下の久米愛氏の3人の女性が、高等文官試験司法科(司法試験)に合格したと発表した(この時の合格者数は242名であったという)。女性初の快挙であった。『法律新聞』(第4339号、11月8日)は、第一面に「女弁護士登場」として、3人の写真と談話を掲載した。嘉子はインタビューに応えて、次のように語っている。「之から先の方針も未だ決まって居りません状態です。仮令若し弁護士になるに致しましても職業として立って行くと云ふよりは、只管不幸な方々の御相談相手として少しでも御力になりたいと思って居ります。それには余りにも世間知らずの無力な、空虚な自分を感じます。晩成を期して、学問の上でも、社会の事に就いてももっともっと勉強し、経験を積んでその上での事でございます。そこ迄自分がやって行けますか何うか、」それでも自分の最善を尽くしたい、と語るのである。

「不幸な方々のご相談相手」になりたい、と女史は語るが、具体的にそれがどのように現わされたのか。「1972(昭和47)年6月新潟家裁所長に就任(女性として初の裁判所所長)、次いで浦和家裁所長(昭和48年11月~53年1月)・横浜家裁所長(昭和53年1月~)となり、1979(昭和54)年11月13日、定年退官した。横浜家裁の所長時代、薄汚れていた調停室の壁を明るい白に塗りかえ、壁に絵をかけ、カーテンを新調し、昼休みには廊下に静かな音楽を流した。家庭問題に深刻な悩みを抱えた人々の心を少しでも和ませようとの心遣いからであった。また、各地で精力的に講演を出掛けたが、それは、少年事件や家事事件について一般社会に関心を持ってもらうためであり、特に少年問題は家裁に送られる前に家庭や社会が少年問題に理解をもって協力することが肝心であると考えたからに他ならない。『家裁は人間を取り扱うところで、事件を扱うところではない』『家裁の裁判官は、社会の中に入って行く必要がある』との信念からであった」(村上一博「三淵嘉子―NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)の主人公のモデルとなった女子部出身の裁判官―」。

「キリストは私達のパラクレートスとなられることを約束されたのである」、この世の弁護者は、言葉によって傍らに立ち、言葉によって支え、言葉によって慰める、そして私たちの弁護者、主イエスは、十字架に付けられ、血を流されることで、私たちの人生と一つになり、苦しみを共にしてくださった。今は見えない霊として、教会の私たちと、常にどんな時も共におられるのである。